カエフェリー城
イギリスの正式の呼び名が「グレイトブリテンと北アイルランドの連合王国」を意味するものであることは、以外としられていない。つまりブリテン島のイングランド、スコットランド、ウェールズとアイルランド島北部の北アイルランドの4つの国の統合された国家という意味である。イングランドはアングル人の土地という意味で、アングロ・サクソン人の樹立した国家である。しかし、スコットランドやウェールズ、それにアイルランドはアングロ・サクソン人の国ではなく、紀元前500年前後に中部ヨーロッパから移住して来たケルト人からなる国家であった。今日ケルト人は、彼らが歴史的にもまた地理的にも最後に到達した地域にかろうじて生き残っているわけで、これがいわゆるケルティック・フリンジ(ケルト周辺部)と呼ばれる所以なのである。ゆえに彼らにはひとまとめにされた英国の歴史とは違った、彼ら自身の民族と国家の歴史を持つのである。
大西洋と北海に挟まれた大ブリテン島を中心をする島々にはB.C.30万年前頃の旧石器時代から既に人間が住んでいたと言われている。また新石器時代(B.C.2500年頃)になるとヨーロッパ大陸から様々の民族がこれらの島に移り住むようになった。彼らはイングランドのソールズベリー近郊に見られるストーンヘンジ (Stonehenge)や、ウェールズのニューポート(ダヴェド)にある巨石文化を築いた。
クロムレック
B.C.650年頃になると、ヨーロッパ大陸に広く住んでいたケルト人(Celts)がこれらの島に移住して来た。今日彼らはウェールズ、スコットランド、アイルランド、マン島そしてコーンウォール等に共通する言語、文学伝説、鉄器技術を残している。また彼らはB.C.200年頃には地中海沿岸の諸国と貿易を始めたという。
B.C.55年、ジュリアス・シーザーは大ブリテン島へ上陸する。ローマによる占領は西暦43年から 407年まで続き、その間ウェールズには第2アウグストゥス軍団の本営がカイルレオンに造営された。ローマ軍の進駐と共に、道路も整備され、各地に砦や町が建設された。6世紀までにはウェールズ地方にキリスト教が定着し、キリスト教系学問や伝道が盛んになった。
5世紀初頭、ローマがウェールズから撤退すると、ヴァイキングが海岸地帯を襲撃し、サクソン人が東方より迫って来た。このサクソン人に対し、ブリトン人の王アーサーがバドニクスの丘で大勝利を収め、サクソン人の来寇をくい止めたという伝説が生まれた。しかし実際にはウェールズのブリトン人は577年のディラムの戦いと616年のチェスターの戦いで敗れ、同胞であるコンウォール地域のブリトン人や北イングランド地方の北ブリトン人との関係を絶たれてしまった。
6世紀までにはウェールズにキリスト教が定着する。南ウェールズのラントウィット・メイジャーにはキリスト教の学院が作られ、キリスト教とヨーロッパの学問が伝えられる。その間、北ウェールズではグウィネッズ王国が興り、西ウェールズではダヴェッド王国が、中部ウェールズではポーウィスが興きた。ダヴェッド王国はハウエル善王のとき、周囲の群小王国を併合しデエイーバース王国へと発展する。またハウエル善王はグウィネッヅとポウイスを得、イングランド王に従臣することにより平和を維持した。
ヴォテポレックス・ストーン
その後のウェールズ地域のケルト人は、現在のイングランドのミッドランド地方にあったマーシャ国(Mercia)との抗争に明け暮れることとなる。757年から796年にかけマーシャ王オッファ(Offa)は自国とウェールズの国境沿いに、今もその跡を見ることのできるオッファの提(Offa's Dyke)と呼ばれる長い堀を築く。そしてこの堀により、ほぼ現在のウェールズの版図が完成することとなり、ここにイギリス史上初めてウェールズという概念が誕生する。ちなみに「ウェールズ」とはアングロ・サクソン語で「外人」を意味する言葉であった。
9世紀になるとフロードリ大王(Rodri Mawr, 844-78) はウェールズを統一し、陸からのサクソン人の侵入を防ぎ、海からのバイキングやデーン人の襲撃を退けた。しかし彼の死後三人の息子はそれぞれウェールズを三つに分割統治した。
ウェールズ王
1066年にヘイスティングスの戦いに勝利を収めたノルマンディー公ウイリアムはイングランドを征服した。彼はウェールズの征服に着手するため、ウェールズ国境付近に国境管轄官領土を創設する。国境管轄官は強大な権力と特権を与えられウェールズへと侵攻する。肥沃な南東ウェールズはノルマン人の手に陥るが、しかし山岳部のウェールズは有能な指導者に率いられ抵抗を続ける。その結果、ウェールズはイングランドの宗主権を暗黙裡に認めることにより独立を維持した。
13世紀になると、1211年イングランド王ジョンはウェールズのグウィネズの内乱に介入、出兵する。リウエリン・アップ・イオルウェス(Llywelyn ap Iorwerth、1194 -1240)のもとウェールズは団結し、イングランドの侵入を阻止し、独立を守る。失政の続いたジョン王は1215年、マグナ・カルタに署名するが、そこにはウェールズの事実上の独立状態が記されている。
しかし1277年エドワード1世はウェールズ征服の途に就く。1282年、最後のウェールズ王、ラウェリン・アプ・グリフィズ(Llywelyn ap Gruffydd)がビルツ付近での遭遇戦で戦死したことで、ウェールズの政治的独立の時代は終わった。1294年、全ウェールズはエドワード1世により武力制圧され、同王はウェールズ融和政策として1301年、後のエドワード2世となるカナーボン城で生まれたエドワード・オブ・カナーボンをプリンス・オブ・ウェールズ(英国皇太子)に叙す。
その後イングランドによるウェールズ支配は、イングランドの内乱もあり困難を極め、1400年から1408年の一時期の間、ウェールズ人、オウエン・グリンドウ(Owain Glyndwr)が事実上ウェールズの支配者となった。(かれはシェイクスピアの『ヘンリー4世、第1部』ではオウエン・グレンダワー(Owen Glendower)として登場する。)
バラ戦争が終ると、1485年、ウェールズのペンブロウク城で生まれたヘンリー・テューダー (Henry Tudor)はイングランド王ヘンリー7世として即位、息子のヘンリー8世は1536年、ウェールズ併合令(The Act of Union)のもとにウェールズを名実共にイングランドの傘下に収めた。このテューダー 家は8世紀のウェールズ王カドワラデル (Cadwaladr)の血筋にも当たる家系であり、この事実はイングランドとウェールズの併合の精神的よりどころとなり、合併を容易にしたことは言うまでもない。
英国の宗教改革時には、リチャード・デーヴィス主教、ウイリアム・ソールズベリーがウェールズ語に翻訳した新約聖書が、1567年に出版された。ウイリアム・モーガン主教により、さらに美しいウェールズ語にされた新約聖書は、旧約聖書がつけ加えられ、1588年、出版された。ウェールズ語訳聖書はウェールズ人の愛国心を高め、またその聖書はウェールズ人の読み書きの能力の基準を示すとともに、ウェールズ語が廃れて行くことに歯止めをかけた。19世紀にはウェールズでは非国教会派が優勢となり、長老派の流れを汲むカルヴァン派メソジスト教会が力を持った。
野外説教
教育においては、トマス・グージによって設立されたウェールズ基金は学校を作り、キリスト教知識普及協会(S.P.C.K)がその後に続いた。しかしグリフィス・ジョーンズによって始められた巡回学校は広くウェールズ全土に教育を普及させた。19世紀になると英国国教会系の国民協会の学校や非宗派系の英国国内海外協会の学校が作られた。
18世紀中葉になるとイングランドやウェールズの知識人やジェントリたちのウェールズ旅行が盛んになる。またこの時期ウェールズ人の間に劇的なまでにナショナリズムが起きる。ウェールズの古代・中世への歴史的興味が起きる。地方史やウェールズ中世文学の発掘や英語への翻訳が試みられる。
18世紀以降、ウェールズでは石炭、銅、鉄、スレート関係の産業が発展した。鉄や石炭は南ウェールズで、銅はアングルシーで、スレートは北ウェールズのスノードニア地方で採掘された。また製鉄産業は初期はレクサムのバーシャムで、それから後は南ウェールズのマーサー・ティドヴィルで盛んになった。マーサーではトレヴィシックの蒸気機関車が走り、製鉄所ではナイルの戦いやトラファルガーの海戦でフランス軍を撃破した英国海軍の砲弾が製造された。また鉄道用のレールの需要や蒸気船用の良質の無煙炭の生産でウェールズは経済的大発展を遂げた。
パリス・マウンテンの銅山
ジョン・「ウォーリック」・スミス画
この間ウェールズはイングランドやアイルランドから大量の労働者を吸収し、ウェールズの人口は10倍に増加する。それに伴い労働組合運動も盛んとなった。労働者の困窮はチャーティスト暴動やリベカ暴動を引き起こした。この様な産業歴史を反映し、政治的にはウェールズは1900年より労働党議員を数多くロンドン議会に送り込んでいる。また現在もウェールズは一貫して労働党の強い地盤となっている。 しかし、1930年代および40年代は石炭から石油へのエネルギー革命のあおりで人口は急減し、ウェールズ地方はかっての繁栄から取り残される。しかし近年、日本を含む海外からの産業の誘致に成功し、ウェールズはブリテン島でももっとも活力に富む地域となっている。またスコットランドと同様、ウェールズ人の愛国心も自負心も高まり、今21世紀を迎えようとしている。
失業してロンドンの街角で歌う元ウェールズの炭鉱労働者