先史時代よりスコットランドにはピクト人が住んでいた。ピクト人はローマ人の北進に抵抗し、ついにローマはピクト人の征服を諦めるが、ローマ皇帝ハドリアヌスはピクト人の南下をくい止める長城を造ることを命令した。これが全長118キロメートルにおよぶハドリアヌスの長城である。
ローマ軍が撤退すると、西暦6世紀ごろアイルランドから来たスコット人がブリテン島北部に4つの王国を作る。9世紀にはスコット人はピクト人を併合し、その後ケネス1世は諸国の統一に成功し、スコットランド王国の中核となる国を作る。ケネス1世の子孫は11世紀までに今日のスコットランドのほとんどを支配するようになる。
その後スコットランドは数世紀に渡り、貴族の反乱やイングランドとの戦いによる戦乱の世を迎える。1296年イングランド王エドワード1世はスコットランドを侵略し、ダンバーの戦いでスコットランド軍を敗った。スコットランド王国はエドワードに降伏し、エドワード1世はスコットランド王が即位のときに座る「スクーンの石」を持ち去ってしまった。1297年、ウイリアム・ウォーレスはスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を破るが、1305年捕らえられ、処刑される。しかし翌年、ロバート・ブルースが蜂起し、独立を達成すると共に、彼はスコットランド王として即位する。その後スコットランドはエドワード2世に対して優勢に戦い、フランスと百年戦争を戦っていたエドワード3世に対してはフランスとの関係を強めることにより対抗した。
16世紀、宗教改革の嵐がスコットランドを襲った。カトリックの聖職者であったジョン・ノックスは1545年に回心し、スコットランド女王メアリーの治下にはジュネーブに亡命、1559年に帰国し、長老派教会を設立した。メアリーはプロテスタントの流れに抗したが、その努力も徒労に終わり、1587年に処刑された。しかしメアリーの息子で、スコットランド王のジェームズ6世は、エリザベス1世の死去により1603年、イングランド王ジェームズ1世として即位し、スコットランドとイングランドは同君連合の形をとるに至った。
1688年の名誉革命後、ブリテン島におけるイングランドの圧倒的優位が確立し、スコットランドにおいてもイングランドとの連携を求める気運が高まった。その結果1707年両国は合同し、ブリテン島は一つの議会の下に置かれた。それと共にスコットランドは独自の議会を廃止し、その代わりにロンドンの下院に45議席、貴族院に16議席が与えられた。
アン女王が1714年に死去し、ジョージ1世が即位すると、フランスに援助されたジェームズ2世とその子孫を支持する人々が反乱を起こした。ジェームズ2世の息子は1715年に蜂起するが敗退する。またジェームズ2世の孫にあたるチャールズ・エドワード・スチュアートは1745年に密かにスコットランドに上陸し、ハイランド軍を率いイングランド軍を破り、ダービーに達するが、そこで優勢なイングランド軍と対峙し、ロンドンを目前に退却、その後インバネス近くのカロデンの野で最後の戦いを挑み敗北し、フランスへと逃亡した。
いわゆる「45年」の蜂起後の粛正は凄惨を極めた。まず殺戮と陵辱が行われ、次に徹底的なハイランドの政治的、社会的変革が試みられた。部族の武装解除がなされ、伝統的な部族組織が解体され、部族特有のキルトの着用が禁止された。ロンドン議会のスコットランド人議員はこれらの政策に反対することができず、黙従するしかなかった。しかし45年の反乱後のブリテン島の政治はジャコバイト的傾向が一掃されたことにより、ホイッグとトーリーとの亀裂が修復され、経済発展に力が注がれた。その結果スコットランドにも都市化が及んだ。またアバディーン、エジンバラ、グラスゴーはスコットランドにおける学問の中心地となり、アダム・スミスは「国富論」を書く。
スコットランドはその後「連合王国」の一員としての道を今日まで歩んでいるが、1970年代の北海油田開発でスコットランドの国民意識は高まり、1979年スコットランド独自の議会を持つための国民投票が行われたが否決された。しかし1997年に発足した労働党内閣のもと独自の議会と、大幅な自治権を求める動きが進行している。