カエフェリー城
紀元前4世紀ころまでケルト人がアイルランド島に渡来し、その独特の文化は5世紀に聖パトリックがアイルランドにキリスト教を伝えた後、すばらしい工芸や文学作品となって花開いた。8世紀にヴァイキングがこの島を襲い、1014年まで留まった。その後150年間アイルランドは外国からの脅威にさらされることはなかった。
紀元前4世紀ころまでケルト人がアイルランド島に渡来し、その独特の文化は5世紀に聖パトリックがアイルランドにキリスト教を伝えた後、すばらしい工芸や文学作品となって花開いた。8世紀にヴァイキングがこの島を襲い、1014年まで留まった。その後150年間アイルランドは外国からの脅威にさらされることはなかった。
しかし12世紀に教皇ハドリアヌス4世がイングランド王ヘンリー2世にアイルランドにおける大君主権を与えたことにより、それからイングランドとの間に800年にわたる抗争が始まる。16世紀にはイングランドが新教を強要し始めたとき、アイルランドのカトリック教徒と新教徒との間に論争が始まり、暴動が絶え間なく発生した。エリザベス1世の治世から植民地化の動きが強まり、特にピューリタン革命時は土地は没収され、新教徒の不在地主によって多くの土地が奪われた。その後もカトリック教徒の農民はイングランド人の不在地主のもとで悲惨な貧困状態を強いられ、宗教および政治上の差別も加わったため、17世紀から18世紀にかけて多くの反乱や暴動が起こり、そのたび激しく弾圧された。
1800年、アイルランドはイギリスに併合され連合王国の一部となったが、農民は困窮し、暴動はその後も続いた。土地問題の解決と自治要求の二つが、19世紀後半のアイルランド政策の課題となった。アイルランドの指導者、ダニエル・オコンネルの世論喚起活動は1829年のカトリック解放法へと繋がった。しかし1845年から1849年にかけてのジャガイモの胴枯病による凶作から、いわゆる「ジャガイモ飢饉」が起こり、10年間に約100万人が死亡、1840年から20年間に約200万人が米国に移民した。これはアイルランドの政治的発展を阻害した。
自治法が1914年に成立したが、第1次大戦により実施は延期された。シン・フェーン党を中心とする独立運動が激化し、 1916年に「イースター蜂起」という武装蜂起がダブリンで起こり、1919年には農民の武装闘争が始まった。1922年、アイルランド自由国が自治領として認められたが、人口の5分の3が新教徒であるアルスター地方は北アイルランドとして英国に留まることを決めた。アイルランド自由国は1937年に憲法を制定し、国号をアイレと改め、第2次大戦中は中立を保った。1949年新憲法を制定し、イギリス連邦から離脱し、国名をエール共和国(アイルランド共和国)と改めたが、北アイルランド問題はIRA(アイルランド共和軍)のテロやカトリック教徒とプロテスタント教徒による相互テロを引き起こした。アイルランドおよびイギリス両政府は今もなお統一の道を模索している。