Violin
オーケストラのことがそこそこ分かってきたところで、再び目をこの楽器に向けようと思う。
非常に歴史深い楽器ではあることはもちろんだが、実はその発祥ははっきりとは分かっていない。
わかっていることは、このある意味特別な、独特な形はヴァイオリンの音が鳴り響くために考え抜かれた完璧な形であるということだ。
その音色は美しく甘美で、時に強さや冷たさをも持ち合わせるというあまりにも優秀すぎる楽器。
弦楽器の発音原理は非常に原始的、馬の毛で弦を擦って音を出し、その弦を押さえて音程を変化させる。
弦の音程は、低いほうからG・D・A・Eと並び、そこから左手により音程をあげてゆく。
そんな原始的なこの楽器はその形をほとんど変化させずにここまで来た。
進化に変化を重ねてきた管楽器とはまた違ったよさがある。
弦楽器の中でも特にこの楽器の持つ意味はオーケストラではあまりにも大きすぎる。
オーケストラのほかの楽器は、ヴァイオリンでカバーしきれない部分を補うために
存在している、とも言えるほどである。(さすがに少し大げさかも知れないが。)
文字通りオーケストラの花。その知名度はヴィオラの比ではない(涙)
しかしその分、楽譜はいつもおたまじゃくしで真っ黒、低音楽器や管楽器の方々に是非見せたいものだ。
以前も書いたとおり楽器としての性能はオーケストラのどの楽器と比べても遅れはとらない。
最高最強にハイスペックな楽器だ。
ハイスペックさ故に、大音量大迫力で健在する金管に技術と数で対抗するのがこの楽器を始めとする弦パート。
・・・・・かの強大すぎる運命に、我々は決して成すすべなどありはしない
―――――――本当にそうなのだろうか?運命をそこに存在する”壁”のようなものだとすると、それを乗り越えることは決して不可能などでは
ないのではないか?
チャイコフスキーやマーラーではそのような情景を感じ取れる。金管楽器を外的要素と例えるならば、
弦郡は内的要素に例えられる場合が多い。
ところでこの、肩に乗せてあごで支えて弾くというスタイルにしばし疑問を覚えるものも多いのではないだろうか。
そう、あれは見ている以上にやりにくく、人間の体の構造上、
ここに置かれたものを垂直に弾くという行動(運動ともいう)は決して自然なものではない。
そこが決定的な違いだ。人の体としての運動をいつまでもしているようでは、決して上手くはなれず、
もう意識の中で体を作り変えるしかない。
だってそうだろう?この楽器はどこまでも精巧、完璧のそれに到達した非凡な存在。
それを弾きこなすには発展途上な自分を変えてゆく他ないだろう。
そんな発展途上なヴァイオリニストは現在5人。
tuttiでヴァイオリンだけ取り上げられると、ヴァイオリンが普段いかに大変なことを聞こえないところでやっているかがよくわかる。
(愛工大オケではヴァイオリンさえも人数が少なく聞こえないのだ(涙))
わがヴァイオリニストはみな技術的にエリート。ホント頭が上がりません。簡単な楽譜でえらそうなこと言ってすみません(笑)