YOSHIGA CARDIFF

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ウェールズ旗


ウェールズの赤いドラゴン

 東洋的な竜が何故ウェールズの旗になったのか?西暦2世紀、小アジアで大勝利を得たローマ軍がドラゴンを知り、それを持ち帰ったものとされる。ローマ皇帝トロヤヌスはこれをローマ軍旗として棹の先に付けることを命じた。ローマ軍がこのドラゴンをローマの属州であったブリテン島にもたらした。西暦5世紀初頭、ローマ軍がブリテン島から撤退して以降、ブリトン人がこれを軍旗として使用した。

一方、ヨーロッパ大陸でローマ軍と戦っていたゲルマン人は、ローマ軍の軍旗のドラゴンを見てこれを真似し、彼らのシンボルとしてをれを用いた。かれらは白いドラゴンを好んだという。ローマ軍撤退によって生じた軍事力不在のブリテン島にサクソン人やアングル人が渡来した。そこでブリトン人とサクソン人の戦いが始まる。両者は共に赤い竜と白い竜の軍旗を掲げて戦った。ここに、赤い竜(ウェールズまたはブリトン)人と白い竜(サクソン人)の戦いが始まったのであった。

この赤竜と白竜の戦いは伝説や物語として歴史に残った。アーサー王の助言者であり、ブリテン島で一番の予言者であったマーリンは、ある時1人のウェールズ王に招かれた。その王が城を建てようとすると必ず途中で石組みが崩壊してしまうが、その理由を知りたいということであった。マーリンは城を建てようとしている敷地の地中には池があるため、地盤が弱いことを告げる。そこで王は地面を掘ってみると予言どおり池が現る。すると、そこから赤竜と白竜が出現し、相争う。マーリンは予言してイノシシが現れるまでこの戦いは続き、最後に赤竜が勝利するという。一方、『ブリタンニア諸王史』の著者モンマスのジェフリーは、白い竜が勝ったとし、イングランドのブリテン島支配を正当化している.

ウェールズ王カドワラデル(Cadwaladr ap Cadwallon ap Cadfan:?〜664)は赤竜を軍旗に使用する。彼は、633年、父の死により国を奪われたが、654年奪い返す。664年疫病のため死亡。彼の治世中は、何ら大きな出来事はなかったが、彼は吟唱詩人(Bardd:歴史や一族の武勇をを語ったり、予言をしたりする詩人)の語る物語の中で偉大な英雄と見なされ、彼が再びこの世に帰還し、ブリトン人を率い、サクソン人を打ち破るとして語り継がれていくことになる。

ヘンリー・チューダーはウェールズ王カソワラデルの子孫であり、またランカスター家の傍流ボーフォート家に連なるっていた。うち続く戦いで、ランカスター本家の男子の血筋は途絶え、ボーフォート家が残った。ウェールズはヘンリーをカドワラデルの再来とし、また「予言の子」として見なすようになった。かれはバラ戦争最後の戦いであるボスワスの戦いで、カドワラデルの赤竜旗を掲げ、リチャード3世と戦い、勝利を収めた。戴冠式に、かれは赤竜旗をセントポール大聖堂に奉納する。これらの赤竜の使用は、異論が多かった彼の王位継承にあたって、ウェールズ王家の出自を強調し、ブリテン島の支配者を印象づけるためであったといわれる。

その後、ウェールズの赤竜はスコットランド王家のユニコーンに押され、影が薄くなるが、19世紀に復活する。現在のウェールズ旗は、20世紀初頭には有名になり、1911年のエドワードのウェルズ大公叙任式で使用された。現在のウェールズ旗はエリザベス2世女王により、1959年に公式に大公領の旗として認められた。


イギリスの守護聖人

  ウェールズの守護聖人 セント・デイビッド

    イングランドの守護聖人 セント・ジョージ  セント・ジョージ旗

 スコットランドの守護聖人 セント・アンドリュー セント・アンドリュー旗

  アイルランドの守護聖人 セント・パトリック セント・パトリック旗

(しかし、セント・パトリック旗は、歴史上、実在しなかった。英国旗を作るために便宜上作られたものであった。)


イギリス国旗の成立

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残念ながら、英国旗にウェールズの旗はない。早くイングランドに併合されたためである。

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