YOSHIGA CARDIFF

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ヘンリー7世(ヘンリー・テューダー)


ウェールズ史を飾った人々

       

  • アーサー王(Arthur, King)

    ブリトン人の伝説的国王。実在は疑わしいが、彼は5世紀末、サクソン人と戦い、バドニクスの丘で大勝利を得たとされる。円卓の騎士や聖盃探求談という、いわゆるアーサー王伝説をを生み出し、後世の文学に多大の影響を与えた。

  • アシュトン=スミス (Assheton Smith, Thomas:1752-1828)

    バンゴールの地主。スレート鉱山主。チェシャーのアシュレーに住むトマス・アシュトンの息子として生まれる。叔父ウィリアム・スミスの遺産を相続し、苗字にスミスを加える。1774年から1780年まで国会議員。1809年、スレート採石会社を設立。1826年には年間2万トンを産出する。

  • イルティッド(Illtud:475?-525?)

    ブリタニーの貴族の出自。南ウェールズの布教に着手する。ヴェール・オブ・グラモーガンのラントゥイット・メイジャーに学院を開く。ギルダス、聖ポール・アウレリアン、聖デイヴィッドという後世著名となる人びとがそこで学んだ。

  • ウィリアムズ、 ウィリアム (Williams, William: 1717-91)

    メソディスト派牧師。ウェールズの賛美歌作者。独立派系のルイン・ルイド・アカデミーで教育を受ける。ハウエル・ハリスの説教を聴き、国教会に改宗する。1740年、国教会の執事となり、さらにランウルティドの副牧師となる。1743年、主教により聖職を拒否され、その後メソディスト運動に密接に関与する。ウェールズの巡回福音伝道を起こす。賛美歌集を数多く出版し、メソディストの布教に大いに寄与する。「パンティセリンのウィリアム」として知られる。

    パンティセリンのウィリアム

  • ウィリアムズ、トマス (Williams, Thomas:1737-1802)

    18世紀末の銅産業界における傑出したウェールズ人実業家。1785年ごろから、アングルシーのパリス・マウンテンの主任代理人となった。その銅山は二人の共同経営者によって所有されていたが、2人とも彼1人にすべてをまかせた。彼により、パリス・マウンテンは世界最大の銅鉱山となるが、それを中心に、銅を運搬する船会社や銅の製錬所を含む多くの関連子会社が設立された。

  • ウィリアムズ、ロジャー (Williams, Sir Roger: 1540?-95)

    軍人。著述家。ウィリアム・ハーバート(初代ペンブローク伯)の小姓となる。1572年、オランダのヴリンゲンを守る。1577年から一五八四年にかけ、北海沿岸低地地帯におけるジョン・ノリスの副官となる。1588年、スペイン軍上陸予想地点の防備にあたる。1592年、エセックス伯の跡を継ぎ、英国野戦軍司令官となる。

  • ウィルキンソン、アイザック(Wilkinson, Isaac:fl.1753)

    ジョン・ウィルキンソンの父。カンブリアの製鉄労働者であったが、1753年、バーシャムの炉の借用件を得る。しかし、それは20年以上も前の古い炉であり、生産はうまくいかなかった。長男ジョンはレクサムに住み移り、父親に協力する。

  • ウィルキンソン、ジョン(Wilkinson, John:1728-1808〕

    製鉄王。機械技術者。カンブリアのクリフトンで生まれる。最初は父親と働いていたが、ミッドランドに職を見つける。そこで彼自身の溶鉱炉を造る。父親がレクサムの近郊バーシャムの地に溶鉱炉の借用権を得ると、これを助けるためバーシャムに移り住む。その会社は武器を含むあらゆる鉄製品を製造したが、父親の事業は結局失敗した。1761年、彼は新たにニュー・バーシャム・カンパニを設立し、軍需品の大規模な生産を行った。1774年、鋳鉄大砲の砲身の穿孔用に、中ぐり盤を製作し特許を得、大成功を収めた。またこの中ぐり盤で、ワットの蒸気機関用シリンダが独占的に製造された。その後、運河や鉱山開発を手がける。1799年、デンビーシャーの州長官となる。

  • ウィルソン、リチャード (Wilson, Richard:1713-82)

    ウェールズ人風景画家。英国風景画の父と言われる。マッキンレスのペネゴエスに生まれる。172九年、ロンドンで絵の修業を始める。1750年、イタリアのローマに渡る。そこで肖像画から風景画へ転向する。1757年に帰国し、ロンドンに落ち着く。1768年、王立美術院の設立メンバーとなるものの、画家としての生活は成り立たず、1781年、ウェールズに帰る。代表作に、カンバーランド公爵のために描いた「ニオベ」がある。作風は、光の解釈においては、クロードの後継者であり、後のコンスタブルやターナーの先駆者ともいえる。古典的な枠組みの中で、ロマンティックな情調を表現しており、イタリアやウェールズがその想像力の源泉となっている。

  • ウイン家(グイディルの) (Wynns of Guydir, the)

    北ウェールズのエイヴィオニッズのベニヴェッドとペナントに地所を持つグウィディルのウィン家一族。この他にも、数多くのウイン家が北ウェールズにある。 ヴォーン、ウィリアム(Vaughan, William:1575-1641) 作家。植民地開拓者。初代カーベリー伯の弟。1597年、オックスフォード大学卒。フランス、イタリアを旅行。結婚によりトーコエドを得る。1617年にかけ、ニューファウンドランドの物権を買う。1617七年から1618年、自費で入植者をウェールズからカンブリオルと名付けた入植地に送り込む。しかし彼自身は健康上の理由でその入植地に行くことができなかった。厳しい気候や諸々の理由から、この入植計画は頓挫した。1626年、『黄金の羊毛』を出版する。1628年、騎士に叙せられる。

  • ウースター侯爵 (Worcester, Marquess of: c 1577-1646)

    第5代ウースター伯、初代ウースター侯爵ヘンリー・サマセット。オックスフォード大学マグダレン・カレッジで教育を受ける。プロテスタントとして育てられるが、グランド・ツアー中にカトリックに改宗する。プロテスタントとカトリックの間の軋轢の中で、チャールズ一世はプロテスタントをなだめるため、ヘンリー・サマセットの公職を解いたが、また同時に彼は、ヘンリー・サマセット親子にさまざまの便宜を与えた。主教戦争中には、刑法の適用除外の権利を与えられ、また親子ともども武装の許可が与えられた。また王は、南ウェールズの軍事指揮権を、ヘンリー・サマセットのもとに編入した。内戦が勃発すると、王への財政援助を条件に、初代ウースター侯爵に叙爵される。1546年8月、包囲攻撃を受けていたラグラン城は議会軍に降伏し、彼は囚人として、ロンドンに送られた。高齢と病のため、1646年12月18日ロンドン塔で死亡。

    ウースター侯爵

  • エイブラハム、ウィリアム(Abraham, William:1842-1922)

    労働党政治家。労働組合指導者。また彼は吟唱詩人名マボンで広く知られた。クマバン・ナショナル・スクールで教育を受ける。ブリキ工、炭坑夫を経て、ドア・ボーイとなる。1870年、坑夫の代理人となり、スライド制賃金の導入に成功する。1892年から1898年にかけ、南ウェールズの坑夫は、月の第一月曜日は賃金水準維持のために働かなかった。これは「マボンの月曜日」と呼ばれた。1885年、ロンダ選出国会議員となる。1898年、初代南ウェールズ坑夫連盟会長となる。しかし彼の穏健な和解主義では、1912年の坑夫のゼネストを防ぐことができなかった。また彼はその美しい声で歌い、吟唱詩人大会でも有名であった。

  • エドナヴェッド・ヴァハン (Ednyfed Fychan:?-1246)

    エドナヴェッド・アプ・カヌリッグ)のこと。ラウェリン大王の家老として、政治および軍事の功績を認められ、アングルシーやナントコンウィなどの農奴の村を下賜される。また同時に、子孫がその土地を保有し、戦時の軍務を除き、他のいかなる義務も免れる特権を得た。

  • エドワーズ、 ウィリアム(Edwards, William:1719-89)

    南ウェールズの橋梁建設者。独立派牧師。1751年、穿孔した迫腰(せりごし)を発明し、タフ川に橋を架ける。彼は最初、橋脚部が川床にある2~4スパンの橋を造ったが、それは洪水で流され、流れの中に橋脚部を持たないシングルスパンのアーチ型の橋を試みた。2度目の試みは足場を流され失敗。3度目に成功するが、橋の岸側の部分が重すぎたため沈下し、橋の中央部がもちあがり、橋は壊れてしまった。4度目の試みでは、重い端の部分に丸い穴をあけ重量を軽くしたが、それにより構造的にも強くなり、この橋は完成した。

  • エセックス伯 (Essex, Earl of:1566-1601)

    ロバート・デヴァルー。第2代エセックス伯。軍人。文学の擁護者。エリザベス一世の寵臣。スペイン遠征で功績を挙げる。アイルランド総督となる。1599年、アイルランドで敗北し、女王の許可なく帰国し、官職と自由を剥奪される。1601年、誘われ女王の顧問の取り除きに荷担し、ロンドンの市民を蜂起させることに失敗し、処刑される。

  • エリス、トマス (Ellis, Thomas Edward:1859-99)

    メリオネス選出の国会議員。バラの農場主の息子として生まれる。アベリストゥイスとオックスフォード大学で教育を受け、アーノルド・トゥインビーやラスキンの薫陶を受ける。セシル・ロードを崇拝する。理想のウェールズ、あるいは、あるべきウェールズの姿を模索するカムリ・ヴィーズ運動を展開する。その後、ウェールズの政治的風土を席捲し、国民的英雄となる。しかし、1892年に自由党院内副幹事に就任したことは、裏切り行為ととられ、彼の影響力は薄れて行き、それから7年後の1899年、若くして死亡した。

  • オーエン、ゴロニュイ (Owen, Goronwy:1723-69?)

    ウェールズの詩人。オックスフォード大学ジーザス・カレッジ卒業。ルイス・モリスと文通し、交流を持つ。1755年、ロンドンのカムロドリオンの秘書。1758年から1769年まで、ヴァージニアのウィリアムズバーグのウィリアム・アンド・メアリー・カレッジ校の校長となる。

  • オーエン、ヒュー (Owen, Hugh:1804-81)

    ウェールズの教育功労者。ウェールズの各種の学校の設立に尽力し、アベリストゥイスのユニヴァーシティ・カレッジを設立した。北ウェールズにおける奨学金制度の基礎を整える。また吟唱詩人大会やカムロドリオンを改革した。

  • オーエン、ロバート (Owen, Robert:1771-1858)

    ウェールズ人の空想的社会主義者。博愛主義者。協同組合運動の創始者。ニュータウンの馬具屋兼金物屋の息子として生まれる。わずかな教育を受けた後、本文中にもあるように、1781年彼が10歳のとき故郷を離れ、4年間リンカーンシャーのスタフォードに住むスコットランド人反物商の徒弟となる。ロンドンで働いた後、マンチェスターに移る。1799年、マンチェスターのラナークの工場を買収し事業に成功する。中央スコットランドにニュー・ラナーク工場を建設する。職人の労働条件の改善にとりかかる。子どもの雇用を止める。疾病や老齢のための保険を設立する。1819年、工場法の草案作りに尽力するが、庶民院において骨抜きにされる。1829年、共同経営者との不和のため工場から手を引く。その後、社会改革のために遊説した。

  • オルドウィケス族 (Ordovices)

    北ウェールズの勇猛なケルト人部族。ローマ軍は、ブリテン島に派遣された四軍団のうち、3つの軍団司令部をウェールズ国境付近に設営し、ウェールズの平定にあたった。シルレス族は、75年頃までには抵抗を止めていたが、オルドウィケス族はなおも抵抗を続けた。しかし、ローマの将軍ユリウス・フロンティウスと、その後任者ユリウス・アグリコラは、大殺戮をもってこれを征服した。

  • オワイン・グウィネズ(Owain Gwynedd:1100-70)

    北ウェールズ、グウィネズの王。グリフィズ・アプ・カナンの次男。1120年から1130年にかけ、兄とともに老父王を補佐し、軍事行動を指揮する。兄が1132年に死亡し、一一三七年の父グルフィズ・アプ・カナンの死とともにその跡を継ぐ。イングランドの政治的混乱に乗じ、グリフィス・アプ・リースと連合し、1136年、ノルマン軍を破る。北ウェールズに勢力を拡大する。1157年、混乱から立ち直ったイングランドのヘンリー二世による北ウェールズ侵攻に、手痛い敗北を喫す。その結果、彼はプランタジネット家の大君主権を認め、ヘンリー2世に臣従し、表面上は彼の公的な身分を「キング」から「プリンス」へ代えることに同意する。1165年のウェールズの大蜂起の後、彼はイングランドの拠点を攻撃し、ディー川河口に再度勢力を伸ばすが、基本的には、イングランドとの主従関係を覆そうとはしなかった。しかし、彼は自分自身を単なるイングランド王家の陪臣とは考えていなかったことは、バンゴールの司教選出にあたり彼が示した態度にも表れている。

  • オワイン・グリン・ドゥール (Owain Glyn Dwr: c. 1354-1416?)

    オワイン・アプ・グリフィズ(Owain ap Gruffydd)のこと。シェイクスピアではオーエン・グレンダワー(Glendower)として表記される。ポーウィス最後の王、マドッグ・アプ・マレディズの子孫。母親ヘレンは、トマス・アプ・ラウェリン・アブ・オワインの娘で、トマスはデハイバース王家の出自。オワインは軍人としてイングランド国王の下で、いくつかの戦いに参加する。1385年と1387年のスコットランド遠征では、ヘンリー・ボリンブロックをラドコット・ブリッジの戦いで支援した。紋章学や軍事学において頭角を現す。その後、彼の近隣のリスインの領主レジナルド・グレイと、感情的、個人的な理由で衝突を起こす。1400年9月16日、血族の支援を得て、リスインやその他の自治都市を攻撃する。プリレリモン地方で国王軍を破り、イングランドの束縛からウェールズを解放するという名目で、西ウェールズの支援を得る。1402年、レジナルド・グレイを捕虜とする。同時にリチャード2世に繋がるエドマンド・モーティマーを捕らえ、娘キャサリンと結婚させる。このことを契機とし、ノーサンブリア王の息子パーシーを味方とする。1404年、アベリストゥイスとハーレックを落とす。1405年、ウェールズの領土を過去最大に拡大するが、フランスの援助にもかかわらず、プル・メリンの戦いで悲劇的な敗北を喫す。のち3年間は、外国からの支援を失い、西部地域の離反を招く。ブランハム・ムアでパーシーが敗れ、その後アベリストゥイスやハーレックを失う。しかし彼は、中央ウェールズをその後も維持し、1410年には彼の本拠地を守り、シュロップシャー国境地帯に攻撃を行う余力を残すが、1412年以降、彼の名は歴史から消える。1416年までは、娘の住む人里離れたヘレフォードシャーのモニントンに生存していたという。

  • オワイン・ラウゴック (Owain Lawgoch:?-1378)

    オワイン・アプ・トマス・ロドリのこと。通称オワイン・ラウゴックは、「赤い手をしたオワイン」の意。フランス人にはイヴァン・ド・ガレーとして知られる。イングランドで育ち、フランスで軍事訓練を受ける。ウェールズ出身者からなる傭兵隊の指揮官として有名になる。スペインやフランスを転戦。1365年、父親の遺産相続のためイングランドに戻り、父親の地所を受け継ぐが、1366年、ふたたびフランスに戻る。1360年より停止されていた英仏間の戦いが1369年4月に再開されると、彼のイングランドおよびウェールズの地所は没収された。彼は、ラウェリン大王の子孫として、グウィネズの相続を主張し、フランス王シャルル5世は、その主張を表面上支持する。1372年、ウェールズ侵攻を企てるが、フランス王はそれを中止させる。五年後の1378年、彼はウェールズに向け再度侵攻を企てるが、イングランドに買収された彼の傭兵隊員の1人に暗殺される。 カ

  • カドヴァン (Cadfan:?-620)

    イアゴ・アプ・ベリの子。グウィネズの支配者。カドワロンの父。ランカドワラドゥルの教会の中に保存されている記念碑には、「カドヴァン王、すべての王の中でもっとも賢明で壮烈なる王」とある。

  • カドワラドゥル(Cadwaladr / Cadwallader:?-664

    ) カドワロン・アプ・カダヴァンの息子。633年、父の死により、グウィネズはカダヴェル・アプ・カンヴェドゥに奪われるが、654年、ウィンウェッド・フィールドの戦いでカドワラデルの手に戻る。664年に疫病のため死亡。彼の治世中は、何ら大きな出来事はなかったが、彼は吟唱詩人の語る物語の中で偉大な英雄と見なされ、彼がふたたびこの世に帰還し、ブリトン人を率い、サクソン人を打ち破るとして語り継がれていくことになる。

  • カラタクス(Caratacus / Caradog)

    ブリテン島の部族カトゥベラーニ族の首長。43年頃、ロチェスタ付近の戦いでローマ軍に敗れ、ウェールズに逃れ、シルレス族を率い抵抗する。五一年、オルドウィケス族とともに戦ったが敗れ、妻子はローマ軍の捕虜となった。その後彼は、ブリガンテス族のもとに逃亡したが、その部族の女王に捕らえられ、ローマ軍に引き渡された。歴史家タキトゥスによれば、彼はローマに護送され、クラウディウス帝の前で、大胆で挑戦的な弁論を行い、それにより彼と家族は恩赦を得たという。その後彼はローマで流罪の身として、残りの人生を送ったと言われている。

  • ギトール・グリン (Guto'r Glyn:? - 1493?)

    1440年から1493年にかけて活躍した吟唱詩人。賛美や諷刺の術、またカントリー・ハウスの描写に長けていた。政治的にはヨーク派であり、庇護者としてペンブローク伯ウィリアム・ハーバートや、コールドブルックのリチャード・ハーバートがいた。彼はウェールズ人同士が殺し合うのを見るに忍びなかった。1468年、バーバートが北ウェールズを制圧したとき、ウェールズ人に対し寛大であるように、またイングランド人に公職を与えないように要請した。

  • キネザ(Cunedda; fl. 450? )

    ネンニウスの『ブリトン人の歴史』によると、北ブリテンのゴドジン国の一地域から、アイルランド人を追い払うために、八人の息子らとともに北西ウェールズにやって来た首長。彼らの到来により、この地域にグウィネズ王国が成立する。

  • ギラルドゥス・カムブレンシス (Giraldus Cambrensis: 1146?-1220 )

    通称ウェールズのジェラルドとも、ウェールズ人ジェラルドとも呼ばれる。ウェールズの聖職者。地誌学者。歴史家。ウィリアム・デ・バリの子。ブレコンの助祭長。幼少より、伯父のセント・デイビッズ司教デイビッド・フィッツジェラルドに教育される。その後、パリ大学で学ぶ。帰国後ブレコンの助祭長。伯父のセント・デイヴィッズ司教の死後、1167年、司教座聖堂参事会より、セント・デイヴィッズの司教に選出されるが、ヘンリー2世によって拒否される。失意の中、パリで学研生活に入る。1185年、ジョン王子に伴い、アイルランドに行く。アイルランドの地誌を書く。1188年、カンタベリー大司教ボールドウィンが、第3回十字軍兵士募集のためウェールズを巡回したおり同伴し、後ウェールズの地誌を書く。バンゴールや、ランダフや、その他の司教職を勧められるが、セント・デイヴィッズ司教職に固守し、これを固辞する。1198年のセント・デイヴィッズ司教の死去で、再度セント・デイヴィッズの司教に選出されるが、王とカンタベリー大司教により、ふたたび拒否される。セント・デイヴィッズ司教職就任をめぐる運動は、セント・デイヴィッズをカンタベリーから独立した大司教管区にしようとする運動に発展した。それは五年間続き、その間彼はローマ教皇インノケンティウス3世に嘆願のため、ローマを3度訪れる。ウェールズの諸侯に支援を求めるが、不首尾に終わる。1203年、セント・デイヴィッズでの支持も失う。その後は研究に専念する。

  • ギルダス (Gildas: 516?-70?)

    ブリトン人の聖職者。歴史家。ストラスクライド王国に生まれた北ブリトン人とされる。その後、南ウェールズで修道院生活に入ったと言われている。『ブリタニアの破壊と征服』の著者。

  • グウィリム・アプ・グリフィズ (Gwilym ap Gruffydd:?-1431)

    ペンリン家の事実上の創始者。彼の妻の叔父は、従兄弟に当たるオワイン・グリン・ドゥールの反乱を全面的に支持し、グウィリム自身も、家族や諸々の状況から1402年の反乱に加わる。しかし一四〇七年にはグリン・ドゥールを見捨て、イングランド王と和議を結び、旧領と新たにアングルシーの27人のグリン・ドゥール支持者の土地を授けられる。1410年、最後までグリン・ドゥールを支持した妻の叔父たちの土地を授けられる。

  • グウィン、リチャード (Gwyn, Richard:c.1557-84)

    ローマ・カトリックの殉教者。オックスフォード大学、ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジに学ぶ。1562年、ウェールズに戻り、レクサム地方に学校を持つ。オーヴァードンに在住の折り、カトリックに改宗する。官憲から逃れるため、住居を転々と変えるが、1579年、レクサムで逮捕される。しかしすぐ逃亡するが、1580年、ふたたび逮捕される。四年間投獄され後、1584年、反逆罪で処刑される。ウェールズで最初のカトリック殉教者と見なされている。

  • グージ、トマス (Gouge, Thomas:1605?-81)

    非国教会派神学者。博愛家。ロンドンに生まれる。イートンからケンブリッジ大学に進む。1638年から1662年、ロンドンのセント・セパルカーの牧師となるが、クラレンドン法典により追放される。いく人かの友人とともに、かなりの額の基金を貯め、追放されたロンドンの聖職者の困窮を救った。1671年、ウェールズへの福音活動を行った非国教徒の牧師ジョウゼフ・アレインの伝記を読み、ウェールズに行く。学校を設立し、ウェールズ語による宗教文献の印刷と配布をする。この目的のために、イングランドとウェールズで賛同者を募り、1674年、ウェールズ基金を設立する。

  • クラドック、ウオルター (Cradock, Walter: 1610?-59)

    ピューリタン神学者。会衆派牧師。オックスフォード大学で教育を受けたと考えられている。グラモーガン州のピーターストン、後ちカーディフのセント・メアリーズ教会の副牧師となる。1634年、カーディフで彼のピューリタン的言動が不興を買い、資格を剥奪される。レクサムに移り、そこで説教を行い有名になる。1639年、事実上のランヴァヘスの会衆派牧師。清教徒革命が勃発すると、ランヴァヘスの信徒はブリストルに逃避する。ブリストルが陥落すると、ロンドンへと逃れる。1646年、ウェールズでの布教の許可を与えられる。1646年から1651年にかけて、彼の説教集を出版する。彼は1650年の「ウェールズにおける福音のより良き普及のための法律」の主要な発起人の1人であり、その法律の下に設立されたウェールズで聖職を求める者の適正資格を調査する25人の理事の1人となった。

  • グリフィズ・アプ・カナン(Gruffydd ap Cynan:1055-1137)

    グウィネズ王。父はアイルランドに亡命中のカナン・アプ・イアゴ。母はダブリンのスカンジナビア王家の娘、ラーグネル。オワイン・グウィネズの父。アイルランドで生まれる。1063年、父カナン戦死。11世紀末、アイルランドから二度目の帰還のとき一時期投獄されるが、1094年までには解放される。1098年、ヘンリー1世チェスターとシュルーズベリからグウィネズに一斉攻撃を加えると、彼はアングルシーから、アイルランドに逃れる。翌年三度目の帰還。ノルマン人からアングルシーの統治を承認される。12世紀初頭、グウィネズの領土の多くを奪還。1114年、ヘンリー1世の侵略に対し、領土を失うことがなかった。

  • グリフィズ・アプ・ニコラス (Gruffydd ap Nicolas:?-1456)

    15世紀の南ウェールズを代表する行政官。1436年、カーマーゼンシャーの州長官となる。ハンフリー王子の庇護を得る。1447年、ハンフリー王子の失脚で投獄されるが、すぐに釈放される。信頼を取り戻し、南ウェールズの司法官となる。1450年に権力の絶頂を迎える。カーマーゼンで吟唱詩人大会を開く。ばら戦争勃発前後にヘンリー6世との関係を強くする。1455年、ヨーク派が勝利を収めると、いくつかの官職を失う。1456年、リッチモンド伯エドマンドとペンブロークで戦う。その後、彼の名は記録から消える。

  • クロシェー、リチャード (Crawshay, Richard:1739-1810)

    製鉄業者。実業家。16歳のとき父親と口論の末、リーズ近郊のノーマントンを家出し、ロンドンに出る。アイロンこてを扱う金物商に就職。その社主の信任を得、その娘と結婚し、その会社の事実上の所有者となり、富を築く。南ウェールズでの製鉄業の成功を知り、マーサーに進出、カヴァルスヴァの借地権を取得。アンソニー・ベーコンの死後、アンソニー・ベーコン二世から株を買い取り、その製鉄所を手に入れる。

  • ゲスト、ジョシア・ジョン (Guest, Josiah John:1785-1852)

    実業家。製鉄王。ドウライス製鉄所の経営者。ジョン・ゲストの孫。ドウライスに生まれる。製鉄業や化学や工業の知識に通暁していた彼は、、マーサーでは第3位の企業であったドウライス製鉄所を第1位の企業とした。1832年から1852年まで、マーサー・ティドヴィル選出の国会議員。

  • ゲスト、ジョン (Guest, John:1722-85)

    シュロップシャのブロズレイから、1759年、ドウライスの小さな製鉄所の管理者としてマーサーにやって来る。1782年までに、その製鉄所の株を部分的に取得する。 サ

  • シオン・ケント (Sion Cent: 1367?-1430?)

    詩人。彼の生涯についてはほとんど知られていない。Sion Gwentとも、Sion y Centとも、 Sion Kemp(t)とも言われる。1400年から1430年の間に、彼の詩が書かれたと推定される。彼の詩の主題は、人生の不確かさ、必然性としての死、最後の審判などであった。

  • シドニー、サー・ヘンリー(Sidney, Sir Henry:1529-86)

    行政官。軍人で文学者として著名であったフィリップ・シドニーの父。1556年、サセックス伯に従いアイルランドに渡る。サセックス伯不在の折りには代理となる。1559年、エリザベス女王により、ウェールズ院長官に任命され、彼の死の一五八六年までその職にあった。1560年頃、彼はドイツからの熟練工の力を借り、南東ウェールズに鉄産業を興した。一五六五年、ガーター勲章を授けられ、ふたたびアイルランドに派遣される。2回の不在期間中のうち一回目(1565〜71年)は、副長官のウィリアム・ジェラルドとの緊密な連絡の下、ウェールズ行政は順調であったが、2回目(1575〜8年)のホイットギフトが副長官であったときは、あまりうまくいかなかった。1578年、アイルランドでの任を解かれる。

  • シルレス族 (Silures)

    南東ウェールズのケルト人部族。43年頃ロチェスタ付近の戦いでローマ軍に敗れ、ウェールズに逃れたカラタクス(ウェールズでの名はカラドッグ)の懇請により、ローマ軍と戦う。カラタクスが捕虜となった後もローマ軍への抵抗を続ける。51年頃にはローマ軍を打ち破ったが、75年頃までにはその抵抗運動は終わった。

  • ジョーンズ、グリフィス (Jones, Griffith:1684-1761)

    聖職者。教育改革者。巡回学校の創始者。ウェールズ語によるさまざまの神学上の著作がある。カーマーゼンに生まれる。村の学校で教育を受ける。羊飼いになるが、聖職者を目指し、カーマーゼンのグラマースクールに入学。1708年、聖職を授けられる。彼はまた、サー・ジョン・フィリップスの設立したキリスト教知識普及協会(S・P・C・K)の学校の教師でもあった。説教家として有名になるが、アダム・オットレイ主教は、本文中にもあるように、彼が平日説教に出かけていくことに対し不満を漏らしている。1713年、キリスト教知識普及協会の連絡委員となり、ロンドンに行く。1716年、後援者であるサー・ジョン・フィリップにより、カーマーゼンのランドウローの聖職録を与えられた。彼とともにウェールズ、イングランド、スコットランドを旅行し、説教を行う。1719年、ジョン・フィリップの娘と結婚する。巡回学校がいつ始まったかは不明であるが、1737年にはそれが三七校があった。この巡回学校は大成功し、彼が死去する1761年には、25年間で3495校が作られ、15,8000人の生徒が学んだと報告されている。

  • ジョーンズ、トマス (Johnes, Thomas:1748-1816)

    文人。国会議員。リース・アプ・トマスの甥の子孫としてラドローに生まれる。イートン校を経て、エジンバラ大学卒。1783年、ハヴォド・ユークトリッジに定住し、地所管理に専念する。羊や家畜の品種改良、新しい穀物の栽培を始める。借地人に農業改良を勧め、1800年、『カーディガンシャーの地主の借地人への忠告』とそのウェールズ語版を出版する。

  • 聖デイヴィッド(St David / Dewi: ?-589?)

    ウェールズの守護聖人。ウェールズのメネヴィア、現在のセント・デイヴィッズの僧院長。言い伝えによると、母親は聖ノン、父親はケレディギオンの王の息子サントという。

  • ソールズベリ、ウィリアム(Salesbury, William: 1520?-84?)

    ウェールズの聖書学者。ウェールズ語訳新約聖書の主要な翻訳者。ランサナンで生まれ、ランルーストのプラス・イサで育つ。オックスフォード大学在学中に、ローマ・カトリックからプロテスタントに改宗する。聖書のウェールズ語への翻訳を志すが、メアリー1世治下のローマ・カトリック復活の兆しの中で頓挫しかけた。エリザベス一世の治下1563年、聖書と祈祷書をウェールズ語に翻訳する法律が通過し、彼はセント・デイヴィッズの主教リチャード・デイヴィスの聖書翻訳を助けるため招かれる。ソールズベリは「黙示録」、「テモテへの手紙一」、「ヘブライ人への手紙」、「ヤコブの手紙」、「ペテロの手紙1」、「ペテロの手紙2」を除く新約聖書すべてを翻訳する。彼はデイヴィス主教と旧約聖書の翻訳にとりかかるが、両者の語義に関する解釈の違い等で、翻訳作業は中止された。その他、彼は1547年、『ウェールズ諺集』を発行している。 タ  

  • ダヴィッズ・アプ・グウィリム(Dafydd ap Gwilym:?-1370)

    14世紀に活躍したウェールズでもっとも偉大な詩人であり、ウェールズでもっとも愛されている詩人。14世紀の南ウェールズに於ける大変影響力のある一族の出自で、祖父はイングランド王よりテイヴ川下流に土地を授けられ、伯父はカステルニュウィッズ・エムリン城の城代であった。先祖は代々王の側近であり、ペンブロークシャーのカマイスが一族発祥の地とされる。彼はアベリストゥスの東部ランバダーン・ヴァウル教区のブロガニンで生まれたものと思われる。かれについては確かなことはあまり知られていない。彼はウェールズを隈なく旅し、アングルシーのニューバラを歌ったり、番ゴール大聖堂を訪れた。かれはまたケレディギオンの貴人たちを賛美する詩を書き、自然や愛についての多くの詩を残した。彼はストラータ・フロリダ修道院のイチイの木の下に埋葬されているという。

  • ダービー、エイブラハム(Darby, Abraham:1677-1717)

    シュロプシャーのコールドブルックデイル製鉄所の経営者。1709年、同製鉄所で鉄鉱石をコークスで溶解することに成功した。

  • デイヴィス、ウィリアム (Davies, William:?-1593)

    ローマ・カトリック宣教師。殉教者。1582年、三人のウェールズ人学生とともに、リームズのローマ・カトリック神学校に入学する。1585年、聖職叙任式を受け、二か月後、イングランドへ布教のため送られるが、彼はウェールズへと向かう。第2代ペンブローク伯が、ウェールズ院長官として、カトリック教徒の迫害を始めたとき、カトリック教徒はペンリン・クレイジンのロバート・アプ・ピューの下に集まり、リウレディンの崖の洞穴で会合を行っていた。1587年、その洞窟が摘発されたが、カトリック教徒はすでに逃亡していた。3年後、彼がスペインの神学校に入学しようとする若者四名に付き添っていたところを、ホーリー・ヘッドで逮捕される。巡回裁判で反逆罪を宣告されたが、刑は3年間執行されなかった。1593年7月、処刑が行われた。

  • デイヴィス、ウオルター (Davies, Walter:1761-1849)

    グオルター・メッケイン(Gwallter Mechain)のこと。聖職者。ウェールズの吟唱詩人。随筆家。12歳で教育を終え、銅細工を学ぶ。吟唱詩人と交わり、吟唱詩人大会で注目を浴び、オワイン・マヴァールの援助によりオックスフォード大学に進む。一七九五年、オックスフォード大学オール・ソールズ・カレッジ卒。1803年、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジ卒。1807年から1837年まで、モントゴメリーシャのラニュイズエランの教区牧師。生前中多くの著書や翻訳を出版する。1813年の『北ウェールズにおける農業と国内経済に関する一般的見解』や、1815年の南ウェールズに関する同様の主旨の著書がある。

  • デイヴィス、デイヴィッド(Davies, David:1818-90)

    実業家。国会議員。11歳で学業を終えると、父親の農業を手伝う。1846年、セヴァン川に架ける橋の建設に携わる。1855年、ランイッドロイス・ニュータウン間の鉄道の第一区間建設を請け負い、その後も事業を拡大する。1864年、ロンダ渓谷の炭田の借地権を得、石炭採掘事業に乗り出す。1889年、タフ渓谷鉄道とビュート・ドックの能力が限界に達したため、彼はバリーに石炭の積出港を造り、彼の炭坑と鉄道で結んだ。

  • デイヴィス、リチャード(Davies, Richard: 1501?-81

    )  セント・デイヴィッズ主教。オックスフォード大学卒。1536年、神学博士となる。一五四九年、聖職につく。メアリーが王位に就くと、聖職禄を剥奪される。1555年から58年まで、フランクフルトに亡命。1559年、セント・アサフ、一五六一年、セント・デイヴィッズの主教となる。宗教と政治の両面で活躍する。1568年、『主教聖書』の「ヨシュア記」、「サムエル記下」の翻訳を委ねられる。聖書のウェールズ語翻訳法案が議会を通過すると、翻訳を促進するためにソールズベリーを招く。1567年、祈祷書、新約聖書の翻訳を完成さす。この翻訳は学問的ではあったが、ぎこちないところがあり、彼はさらに推敲を重ねていた。この聖書はウィリアム・モーガンにより改訂され、美しいウェールズ語の聖書となった。

  • テューダー、エドマンド(Tudor, Edmund: 1430?-56)

    ヘンリー7世の父親。オワイン・テューダーとヘンリー5世の未亡人キャサリン・デ・ヴァロアとの間に誕生した長男。リッチモンド伯。異父兄で、後のヘンリー六世とともにイングランドで育てられる。サマセット侯爵ジョン・ボーフォートの娘マーガレット・ボーフォートと結婚する。しかし、1456年11月3日、ウェールズのカーマーゼンで死去する。

  • テューダー、オワイン(Tudor, Owain:1400?-1461)

    エドマンド・テューダーの父。ヘンリー7世の祖父。古いウェールズの郷士の家庭に生まれる。青年期に親戚の伝手(つて)でヘンリー5世王家の従者となる。ヘンリー五世の未亡人キャサリン・オブ・ヴァロアと秘密結婚し、エドマンド(リッチモンド伯)、ジャスパー(ペンブローク伯)、オーエン(ウエストミンスターの修道士)、マーガレット(幼児のとき死亡)、ジェシナ(グレイ・デ・ウイルトン卿婦人)の3男2女をもうける。1436年、妻キャサリンが死亡するやいなや、さまざまの逆境を経験するが、ヘンリー6世が成人に達するとともに力を回復する。ランカスター家を支持し、モーティマー・クロスでランカスター家の下に戦うが、ヨーク家側に捕らえられ斬首される。

  • テューダー、ジャスパー (Tudor, Jasper: 1421?-95)

     ペンブローク伯。ベッドフォード公爵。オワイン・テューダーの次男。兄エドマンドの死後、南ウェールズに強力なランカスター家の支持母体を作る仕事にとりかかる。戦いが始まると、彼はデンビーを落とし、援軍を要請するためフランスへ渡る。1461年、モーティマー・クロスでエドワード4世に敗れると、彼は変装し、ウェールズ各地を経て、アイルランド、さらにスコットランドに逃亡する。1470年、ランカスター家がトークスベリで二度目の大敗北を喫すると、彼はチェプストーに逃れ、そこで甥のヘンリー(後のヘンリー7世)と再会し、ともにブリタニーに亡命する。1485年、彼はヘンリーとともにミルフォード・ヘイヴンに上陸し、リチャード3世をボズワースに破る。彼はベッドフォード公爵に叙せられ、南ウェールズの主席司法長官となった。

  • テューダー、ヘンリー(Tudor, Henry:1457-1509)

    後のヘンリー7世。リッチモンド伯。父エドマンド・テューダーの死後、ペンブローク城で生まれる。叔父のジャスパー・テューダーの保護の下、少年期をウェールズで過ごす。トークスベリの戦いで敗北した後、叔父とともに、ブリタニーに亡命する。1485年8月7日、ミルフォード・ヘイヴンに上陸する。シュルーズベリに進軍し、8月22日、ヨーク家最後の王リチャード3世をボズワースに破り、テューダ朝を開く。エドワード4世の長女エリザベスと結婚し、ヨーク家とランカスター家を和解させた。

  • テルフォード、トマス (Telford, Thomas:1757-1834)

    スコットランド人の土木技術者。彼が手がけたものには、エレズミア運河、カレドニア運河、1472キロに及ぶ道路、メナイ海峡の吊り橋等がある。

  • トレヴィシック、リチャード(Trevithick, Richard:1771-1833)

    機械技術者。発明家。コーンウォールの鉱山技師。1802年、高圧蒸気機関と蒸気車の特許をとり、蒸気機関車を作った。1804年2月、マーサー・ティドヴィルからアベルキノンまで、15.2キロを機関車で、10トンの鉄と70人と五台の貨車を、時速8キロで牽引した。しかしその機関車は注目を引くこともなく、彼は不遇な生涯を送った。 ナ

  • ネンニウス (Nennius)

    歴史家。『ブリトン人史』の編者。マーシャ国の国境付近に住む。バンゴールの司教エルボッドの息子。 ハ

  • パウエル、ヴァヴァサ (Powel, Vavasour:1617-70)

    ピューリタン神学者。ウォルター・クラドックの説教や、リチャード・シッブスの著書でピューリタンに改宗する。1640年、説教により治安を乱したとして逮捕される。1644年、ケント州ダートフォードの牧師となる。1649年、ロンドン市長の前で説教する。1650年、庶民院で説教する。1653年、第5王国論でクロムウェルと対立。同年12月18日、クロムウェルを糾弾、同月21日に逮捕される。釈放後反クロムウェル運動を組織するため、ウェールズに逃れる。その彼の活動は多くのウェールズ人ピューリタンの離反を招く。1660年以降、逮捕、投獄が繰り返される。1670年10月27日、病死。

  • ハウエル善王(Hywel Dda:?-950)

    ウェールズ王。920年の父カデルの死後、クリドッグとともに現在のカーディガンシャー一帯のセイシルグの支配者となるが、クリドッグの死後、単独で国を支配する。結婚によりダヴェッドを得る。942年、従兄の死によりグウィネズとポウイスを得る。ハウエルの治世は、イングランドに臣従する政策をとり、平和であった。ハウエルの最初の記録は、918年、エドワード長兄王に臣従の礼をとった記述である。以降しばしばイングランド宮廷に伺候する。彼はまた自己の貨幣を鋳造した唯一のウェールズ王でもある。

  • パウエル、トマス (Powell, Thomas: 1779?-1863)

    炭坑所有者。ニューポートで木材業を始め、その後石炭の商いを始める。炭坑を買収し、1829年、試掘し鉱脈を掘り当てる。その後、蒸気船の増加と海軍省の方針により、南ウェールズの無煙炭の販路が開け、彼の事業は拡大する。初期のころから石炭の運搬手段としての鉄道の将来性に気づき、タフ渓谷鉄道やモンマスシャー鉄道の建設を推進する。最終的に一六の炭坑を持ち、1826年には70万トン以上の石炭を輸出した。

  • バージェス主教 (Burgess, Bishop:1756-1837)

    セント・デイヴィッズ主教。ソールズベリ主教。オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジ卒。1803年、セント・デイヴィッズ主教となる。1822年、ウェールズの聖職者の教育のため、ランペターにセント・デイヴィッズ・カレッジを創立する。1825年、ソールズベリ主教となる。

  • ハリス、ハウエル(Harris, Howel:1714-73)

    宗教改革者。ウェールズのメソディストの草分け的存在。1732年から1735年まで、ランゴルスとランガスティの教員。1735年、プライス・デイヴィスの説教を聞き、隣人への福音活動を始める。1763年、聖職を志願するが拒否される。1737年、ダニエル・ローランドと接触。1742年、イングランドのメソディスト活動と連携する団体を組織する。1750年、ウェールズのメソディスト派は、ハリスとローランドの二派に分裂する。1751年、トレベッカに共同体を設立。

  • パーリー (Parry, William John:1842-1927)

    砕石労働者の指導者。著述家。ベセスダに生まれる。1874年、北ウェールズ採石者労働組合の設立に加わり、書記長、後に委員長となる。採石夫に関する数冊の本を出版する。また新聞にも数多く寄稿する。

  • ビュート侯爵(Bute, Marquess of)

    ビュート家はスコットランド、ビュート島に本拠を置く一族。グラモーガンの相続者シャーロット・ジェーンは、1776年、第3代ビュート伯爵の相続人マウントステュアート卿と結婚する。1776年、マウントステュアート卿は、カーディフ城のカーディフ男爵に叙爵される。初代侯爵はカーディフ城を修復する。第2代侯爵はカーディフを近代化し、カーディフを大商業都市とし、1839年、最初のビュート・ドックを建設する。

  • フィリップス、ジョン(Philipps, John: 1666?-1737)

    宗教家。教育者。社会改革者。1684年、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジに入学。翌年、リンカン法学院に入学許可される。ケンブリッジ大学のエラスムス卿より放蕩を戒められる。学位を取得せずケンブリッジを離れる。1695年、ペンブローク選出の国会議員となる。1697年、第四代準男爵となり、結婚。1695年から死去するまで当時の宗教界の著名人と親交を持ち、宗教および博愛活動の中心的人物となる。ペンブロークに22、カーマーゼンに数校の学校を創立する。またグリフィス・ジョーンズの義兄として、彼の活動を助ける。

  • フォックス、ジョージ (Fox, George:1624-91)

    英国の宗教家。フレンド教会の創始者。レスターシャーに生まれる。1647年から1648年にかけ、近隣で「真理の友」の布教活動を始める。彼の教えは、主として長老派に対する非難として発展して行き、支持者を中間階級下部から多く得た。スコットランド、アイルランド、北米、西インド諸島へ布教の旅を行った。

  • プリス、エドマンド(Prys, Edmund:1544-1623)

    メリオネス教区の副監督。「詩篇」のウェールズ語翻訳者。ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ卒業。1576年、メリオネス教区の副監督。1602、セント・アサフの司教座聖堂参事会員。ウィリアム・モーガンの聖書翻訳を助ける。1621年、ロンドンで「詩篇」と「祈祷書」の合本されたものを出版する。

  • フルーエリン (Fluellen

    ) シェイクスピアの『ヘンリー5世』に登場する有能なウェールズ人の軍人。

  • フロスト、ジョン (Frost, John:?-1877)

    チャーティスト運動家。1822年、政治的パンフレットを書き、中傷罪で投獄される。1836年、治安判事に任命される。同年、ニューポート市長。1838年、チャーティスト大会への代表に選ばれる。1839年のチャーティスト大会に出席したことで治安判事を罷免される。一八三九年、ニューポート武装蜂起をもたらしたとして逮捕される。1840年、死刑を宣告されるが、終身流刑に軽減され、タスマニア島に送られる。1856年7月、条件付恩赦を受け、ただちにアメリカ合衆国に向け出発、1856年5月、無条件恩赦を受け7月に帰国する。ブリストル近郊のステイプルトンに落ち着き、93歳で死亡。

  • ベイコン、アンソニー (Bacon, Anthony:1718-86

    ) 製鉄業者。1765年、キヴァルサヴァに広がる4000エイカーの借地権を取得して製鉄所を設立し、マーサーを英国の製鉄中心地にする。

  • ベヴァン婦人(Bevan, Bridget:1698-1779)

    博愛家。教育者。巡回学校の後援者。父親ジョン・ヴォーンは一七〇〇年から一七二二年の間、カーマーゼンのキリスト教知識普及協会の責任者。一七二一年、アーサー・ベヴァンと結婚する。グリフィス・ジョーンズはピクトン城のジョン・フィリップの娘と結婚し、彼女の実家、ヴォーン家とも親戚関係ができた。彼女は彼の巡回学校を強力に援助する。ジョーンズは妻の死後、ベヴァン家に移り住み、一七七九年に死去するが、彼女に巡回学校維持のため、七〇〇〇ポンドを遺産として残す。彼女はそれを運用し、彼女が死去したときには一万ポンドとし、巡回学校の運営に当てることを遺言する。しかし彼女の遺産管理人の二人の親族は異議を唱え、その遺産金は三〇年間大法官府に保管された。一八〇四年にそれが解除され、彼女の意志に当てられるようになったときには三万ポンドになっていた。一八五四年、それまでの学校はナショナル・ソサエティに合併され、ウェールズの巡回学校の時代は終わりを告げた。

  • ペナント、リチャード (Pennant, Richard: 1737?-1808)

    実業家。リバプールの選出の国会議員。ジョン・ペナントの子。1765年、ペンリン地所の半分を遺産相続したチェシャー、ウォーバートンの女相続人と結婚、1783年、男爵となる。1785年、ペンリン地所の残り半分を購入。道路や埠頭を造り、ウェールズのスレート産業の発展に貢献する。

  • ペンリー、ジョン(Penry, John: ?-1593)

    ピューリタンの文筆家。ブレクノックで生まれる。ケンブリッジとオックスフォードで学ぶ。ロンドンで著書を秘密出版する。当局の追求を逃れ、スコットランドへ逃亡。1592年、イングランドに戻ったところを逮捕される。有罪判決を受け、1593年5月、処刑される。

  • ボロー、ジョージ(Borrow, George:1803-81)

    言語学者。紀行家。『スペインの聖書』の著者。1854年、ウェールズ紀行記『ワイルド・ウェールズ』を書く。 マ

  • マクセン (Macsen Wledig)

    マグヌス・マクシムスのウェールズでの伝説的呼び名。首長マクセンの意味。

  • マグヌス マクシムス(Magnus Maximus:?-388)

    ローマの軍人。ブリタニアの司令官。383年、ローマの帝位を要求、大陸に転戦、ガリア・ヒスパニアを破り、西部皇帝となる。388年、イタリアのアクウィレイアで皇帝テオドシウス1世に敗れる。

  • マックワース、ハンフリー (Mackworth, Humphry:1657-1727)

    政治家。資本家。オックスフォード大学マグダレン・カレッジ卒。1682年、ミドル・テンプル卒。法廷弁護士。カーディガンシャー選出の国会議員。1710年、大鉱山会社の副所長。横領罪で告訴され、庶民院で有罪となる。キリスト教知識普及協会の創設委員。

  • マドックス (Madocks, William Alexander:1773-1828)

    国会議員。オックスフォード大学ジーザス・カレッジ卒。1798年、遺産を相続し、ペンモルヴァに地所を購入する。19世紀初頭、グラスリン川に一マイルに及ぶ土手を築き、7000エイカーの干拓地を造った。彼は急進主義者、国会改革擁護者と自ら公言した。事業に失敗し、パリへ移り、そこで死亡。

  • ミドルトン、トマス (Myddelton, Thomas:1550-1631)

    実業家。ロンドン市長。国会議員。東インド会社やニュー・リバー会社の創立メンバー。デンビーシャーのミドルトン家は、1207年に没したペンリン卿リリッド・フレイズの子孫であるという。デンビーシャー選出の国会議員リチャード・ミドルトン(1508年〜75年)は九人の男子をもうけたが、その1人は本家を相続し、トマスを含む三人がロンドンへと移り、1人が海外へ移住、ロバート・ミドルトンはデンビーシャー選出の国会議員となった。トマスはロンドンで成功を収めたが、政治的にウェールズとの関係を維持し、また金融を通し北ウェールズや南イングランド、およびロンドンのウェールズ人と関係を保ち、ミドルトン家の発展に寄与した。長年公職を避けていたが、1603年、ロンドンの上級議員、州長官となり、騎士に叙される。1613年、ロンドン市長となる。晩年、ローランド・ヘイリンと協力し、初の携帯版ウェールズ語訳聖書や、その他ウェールズ関係の著作の出版に資金援助する。

  • ミドルトン、サー・トマス(Myddelton, Sir Thomas: 1586-1666)

    ロンドン市長トマス・ミドルトンの息子。議会軍司令官。オックスフォード大学クイーンズ・カレッジ卒業。1617年、騎士に叙せられる。デンビーシャー選出の国会議員。長期議会の議員。国民軍布告を実施するためデンビーシャーに送られるが、地元の強い反対を受ける。1643年、議会により北ウェールズ方面軍准将として布告される。1644年、モントゴメリーシャーに入り、モントゴメリー城、ポウイス城を落とし、マッキンレスで南ウェールズからの増援部隊を破り、ラドノーシャーに足場を確保する。1645年、ロンドンの議会へ呼び戻される。1648年、戦いが再開されると、ふたたび北ウェールズ防衛を任ぜられる。チャールズ2世を裁判にかけることに反対し、1648年、議会より追放される。王を擁護したため、彼の城に議会軍が差し向けられ、彼が共和国に忠誠を誓うまで兵が駐屯する。1660年、彼の国での軍指揮権を回復し、仮議会の議員となる。

  • ミドルトン、ヒュー (Myddleton, Hugh:1560-1631)

    リチャード・ミドルトンの子で、トマス・ミドルトンの弟。ロンドンのウェールズ人金細工商。銀行家。織物商。国会議員。ニュー・リバー会社を設立し、ロンドンに飲料水を供給する60キロに及ぶ運河を建設する。1617年、マインズ・ロイアル社より、カーディガンシャーの鉱山の借地権を得る。

  • メイリック、ゲリ (Meyrick, Gely: 1556?-1601)

    バンゴールの主教ローランド・メイリックの息子。1587年、エセックス伯家の執事となる。1589年から1591年にかけて、エセックス伯に同行してポルトガル、ノルマンディ、カディズへ行く。1601年、エセックス伯の決起のため、彼の支持者を南ウェールズより集め、ロンドンへ集結させる。グローブ座の役者を買収し、決起前夜『リチャード2世』を演じさせる。またエセックス・ハウスを政府軍から守る任にあたる。タイバーンで絞首刑に処される。

  • モーガン、ウィリアム(Morgan, Bishop William:1545-1604)

    聖書翻訳者。ランダフ主教。1568年、ケンブリッジ大学セント・ジョン カレッジを卒業、助祭となる。ケンブリッジを離れる前から、聖書のウェールズ語翻訳を手がける。1583年、神学博士となる。1588年、ロンドンで彼の翻訳になる聖書を出版する。1595年、ランダフ主教となる。

  • モスティン家(the Mostyns)

    フリントシャーのモスティン・ホールに拠る一族。ウィリアム・モスティンは、1568年にエリザベスによって指名された弟2回カエルウィス吟唱詩人大会の理事の1人。

  • モリス兄弟 (Morris brothers)

    モリス・アプ・リシャート・モリスには4人の息子たちがいた。詩人ルイス・モリス、カムロドリオンの創立者リチャード・モリス、植物学者、古物研究家のウィリアム・モリス、若くして戦死したジョン・モリスのこと。しかし、通常モリス兄弟という場合にはルイス、リチャード、モリスを指す。

  • モリス、ルイス(Morris, Lewis:1701-65)

    ウェールズの詩人。博物学者。古物研究家。最初は測量技師として、ウェールズの海岸を測量する。1729年、アングルシーのホーリヘッドの関税徴収官となる。1737年から1748年、ウェールズの王室領地および鉱山の管理者。1750年、隠退。1761年、詩集やウェールズ史、古物史を出版。

  • モンマスのジェフリー(Geoffrey of Monmouth:1090?-1155)

     ジェフリー・アーサー。聖職者。年代記編者。セント・アサフ司教。『ブリタニア王の歴史』の著者。 ラ

  • ラウェリン・アプ・イオルウェス (Llywelyn ap Iorwerth:?-1240)

    ラウェリン大王と呼ばれる。1194年、亡命から帰還し、叔父のデイヴィッド1世を領土より駆逐する。1201年、イングランド王ジョンの庶子ジョアンと結婚する。ジョン王と同盟し、南ウェールズに勢力を拡張する。その後、ジョン王により領地を没収されるが、教皇、フランス王、イングランドの諸侯の支持を得て領地を回復することに成功する。1216年、ノルマン人支配地域を除いた全ウェールズを支配し、ウェールズ王となる。マグナ・カルタの条項において彼の権益を確かなものとする。

  • ラウェリン・アプ・グリフィズ (Llywelyn ap Gruffydd:?-1282)

    プリンス・オブ・ウェールズ。ラウェリン大王の孫。北ウェールズの王。1245年以前の彼の記録はない。1247年、ウッドストックの和平でヘンリー3世に臣従し、コンウィー川以東の土地を放棄し、コンウィー川以西の縮小した領土をオワイン・グウィネッズと共有する。1257年から1267年にかけ軍事的に大成功を収める。1258年、ウェールズ人領主より臣従礼を得、プリンス・オブ・ウェールズを名乗る。1267年、モントゴメリの和平でヘンリー3世は彼をプリンス・オブ・ウェールズとして承認する。1267年から1277年にかけて、彼の非情なまでの国内政治は多くの家臣の反感と離反を招く。1277年、臣従拒否でエドワード1世の17,000の兵の攻撃を受け敗退、アバーコンウィの条約を受け入れ、事実上ウェールズ人領主に対する宗主権を失う。1282年、ウェールズ北東部に端を発した反乱は全ウェールズに飛び火し、エドワードはこれをラウェリンの反逆であると宣告し、武力鎮圧に乗り出す。1282年12月11日ビルツで戦死。彼を殺した兵は、ラウェリンであるということを知らないまま、首をロンドンに送り、その首は公衆にさらされた。

  • リース・アプ・グリフィス (Rhys ap Gruffydd, Sir:?-1531)

    サー・リース・アプ・トマスの曾孫。1524年、2代ノーフォーク公の娘キャサリン・ハワードと結婚。1531年、反逆罪で処刑される。反逆の証拠は希薄であるが、彼がカトリック教徒であることと、ヘンリー8世のアン・ブーリンとの結婚に反対したことに原因があるとされる。

  • リース・アップ・トマス (Rhys ap Thomas:1449-1525)

    グリフィズ・アプ・ニコラスの曾孫。父親の死により、ディネヴォールの地所を相続する。彼の一族はランカスター家の支持者であったが、彼はヨーク家に仕える。しかし、ヘンリー・テューダーがペンブロークシャーに上陸した折りにヘンリーの支持に回る。1485年8月22日のボズワースの戦いでの功績は甚だ大で、リチャード3世を殺したのはリースの部下であった。彼はその戦場で直ちに騎士に叙せられ、ウェールズ総督に任じられた。その後、ガーター勲章を授けられる。1507年4月、カレウ城で600人の以上の貴族を招き馬上模擬試合を行う。彼はテューダー朝を支え、1513年にはヘンリー8世のフランス侵攻に加わった。晩年病を得て、カーマーゼンの修道院に移り、1525年2月そこで死亡。

  • リース、 モーガン・J (Rhees, Morgan J.: 1760-1804)

    バプティスト派牧師。著述家。(Rhysとも表記する。) 1791年、ポンティプールの近くのペナガーンの牧師となる。フランス革命に共鳴し、牧師職を辞す。ウェールズの教育に貢献するが、英国の政治、宗教における反リベラリズムに失望し、1794年、アメリカに移住する。ウェールズ移民協会を設立しする、1798年、ペンシルベニアのアレゲリー山脈の中にカンブリアと命名した広大な土地を購入し、数多くのウェールズ移民を移住させる。移住者用の家屋の建築、福音活動、新聞の発行、図書館の建設とうに多忙を極める。1799年、サマセット郡に移り住む。

  • ルイド、モーガン(Llwyd, Morgan:1619-59)

    ウェールズ人のピューリタン神学者。イングランドの議会軍の牧師。レクサムに非国教徒の設立、その最初の牧師となる。ウェールズ語の古典的散文として評価される作品を残す。

  • ルイス、リチャード (Lewis, Richard:1807-31)

    ディック・ペンデリン(Dic Penderyn)ともいう。アバーボンに生まれる。1831年のマーサーの暴動で93連隊の兵士ドナルド・ブラックを負傷させたという罪で逮捕され、カーディフで裁判にかけられる。ドナルド・ブラック自身、ルイスを群衆の中に見たことはあるが、誰が彼に負傷を負わせたかは分からないと証言している。しかしルイスは死刑を宣告され、1831年8月13日、カーディフで公開処刑される。1874年、高名な会衆派牧師エヴァン・エヴァンスは、ある男が死の床でドナルド・ブラックを負傷させたことを告白したと語っている。

  • ロイド=ジョージ、デイヴィッド(Lloyd George, David:1863-1945)

    初代デユーイヴォール伯。イギリスの政治家。自由党党首。首相。ウェールズ人の両親の子として、マンチェスターに生まれる。1890年より国会議員。第一次大戦に主戦論を主張する。1916年から1922年まで自由党・保守党の連立内閣の首相となる。

  • ロード・リース(Rhys, The Lord:1132-97)

    リース・アプ・グリフィズ(Rhys ap Gruffydd)のこと。南ウェールズのデハイバース国王。4歳のとき父グリフィズ死亡。父の死後4人の息子は協力してその領土を守る。兄弟が殺され、また死亡し、リースが南ウェールズの支配者となる。イングランド王ヘンリー2世に臣従する。1176年、カーディガン城で有名な吟唱詩人大会を彼の後援のもと行う。彼はまた宗教面においては、ウィットランド修道院に庇護を与え、ストラータ・フロリダ修道院を創建した。ヘンリー2世の存命中は、リースは信任を得た家臣であったが、12世紀末、彼は南部のウェールズ辺境諸侯領に攻撃を加える。1197年、4月28日死亡。セント・デイヴィッズに埋葬される。

  • ロイド、チャールズ (Lloyd, Charles:1662-1747?)

    チャールズ・ロイド2世の息子。ロドブランのロイド家をさらに発展させ、製鉄所を設立するが、1733年までには弟のサンプソン・ロイドが製鉄業を営んでいたバーミンガムに移る。

  • ローデリック、ジョン(Roderick、John:1673-1735)

    暦(almanac)出版者1715年用〜1736年用まで暦を出版する。1728年、ウェールズ語文法書(初版:シュルーズベリ)、1824年(2版:カーマーゼン)を出版jする。この文法書には詩に関する規則はたくさん含まれており、素人が作詩するときに便利であった。彼は1701年のMachynllethの吟唱詩人大会から密接に大会に関与する。彼の暦で吟唱詩人大会を宣伝し、かつ大会での詩を暦に掲載した。

  • ロドリー大王(Rhodri Mawr:?-877)

    844年、父からグウィネズを相続する。855年、叔父の死により、ポーウイスを彼の王国に組み入れ、872年、セイシルグの王となる。短期間ではあるが南ウェールズの2か所に勢力を伸ばした。彼の治世中、ウェールズはデーン人の侵略を受けたが、この危機に対し、彼は勇敢に戦った。彼はサクソン人との戦いで戦死したとされている。6人の子どもを残す。

  • ローランド、ダニエル (Rowland, Daniel:1713-90)

    1743年、ウェールズのメソディスト教徒。グリフィス・ジョーンズの下に深い精神的確信を得る。ウェールズ巡回を始める。1737年ハウエル・ハリスと出会う。ハウエル・ハリスとともに、ウェールズのメソディスト運動を躍進させる。ウェールズ・カルヴァン派メソディスト教会を設立。1746年、ハリスと論争。1751年、ハリスと袂を別つ。1763年、スクワイアー主教より聖職を停止される。ランゲイソーで説教をする。

  • ローランズ、ヘンリー (Rowlands, Henry:1655-1723)

    古物研究家。聖職者。アングルシーに生まれる。1764年まで出版されなかったが、1704年に書かれたアングルシーの農業状態と土地改良に関する本がある。またアングルシーのドルイドの遺跡に関する重要な書物を書く。


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