ゴルセッズ
中世から続いていたウェールズの詩歌と音楽の競技会。
(歴史)
ヘンリー2世により南ウェールズの司法官に任命されたロード・リースは、1176年、カーディガン城で最初の吟唱詩人大会を主催し、ウェールズ中から吟唱詩人と楽人を招いた。詩歌の部と楽器の部で競技が行われた。そのときの優勝者(吟唱詩人と楽人)のために、ロード・リースの席に椅子が用意された。
15世紀初頭、カーマーゼンシャーの州長官であったグリフィス・アプ・ニコラスが前者に匹敵するものを開催した。
フリントシャー・カイルウィスでは3度、吟唱詩人大会が行われたが、1523年と1567年のものは特に有名であり、また1567年エリザベス1世はフリントシャー・カイルウィスでの吟唱詩人大会を公認したが、それは「自らを吟遊詩人(ミンストレル)、作詩家(ライマー)、吟唱詩人(バード)と称する容認できない多くの流浪する怠惰な者どもを」を「山羊と羊を分ける試験」を課すことにより排除するというのが目的であった。これはケルト社会における危険な放浪要素を取り除こうとするものであった。
吟唱詩人集団を支えてきたウェールズ人のジェントリはイングランド化し、吟唱詩人大会に対する興味を失った。その結果16世紀末には吟唱詩人大会は制裁を欠くようになり、やがて廃れていった。また、18世紀までには、最後の吟唱詩人とされる者は活動を止めていた
暦(アルマナック)の出版者であったジョン・ローデリック(John Roderick、1673-1735)は、1728年、ウェールズ語文法書(初版:シュルーズベリ)、1824年(2版:カーマーゼン)を出版するが、この文法書には詩に関する規則はたくさん含まれており、素人が作詩するときに便利であった。彼は1701年のMachynllethの吟唱詩人大会から密接に大会に関与する。彼は自ら出版した暦の中で、吟唱詩人大会を宣伝し、かつ大会での詩を暦に掲載した。このことから、この時期の吟唱詩人大会はアルマナック・アイステッヅヴォッド(almanac eisteddfod)と呼ばれた。
18C末にウェールズ人の国民意識の高まりと共に、吟唱詩人大会が復活する。(ウェールズ文化支援団体カムロドリオンやグィネズイギオンにより支援される)
南ウェールズ出身の熟練石工であったエドワード・ウィリアムズ(イオロ・モーガヌッグ)Edward Williams (Iolo Morganwg:1747-1826) は、ロンドンのウェールズ愛国団体の活動的メンバーであったが、南ウェールズの吟唱詩人(Bardd)は古代ドルイドの伝統と知識を受け継ぐ直系の子孫であるという偽文書を捏造し、ドルイドの儀式と称する祭典を1792年、ロンドン郊外のプリムローズ・ヒルでおこなった。これが後、Gorseddの儀式として吟唱詩人大会に組み込まれることになる。(ゴルゼッズの写真で、白いローブを着ているのがドルイド、青いローブは吟唱詩人、緑のローブは吟唱詩人大会に出場を許可された詩人オヴェイト)
1792年9月23日(秋分の日)にロンドンのプリムローズ・ヒルでロンドン在住の「吟唱詩人」による古代のドルイドの儀式を意識した祭典が行われた。ストーンサークルが作られ、その中央にマイン・ゴルセッズ(石の塚)と呼ばれる祭壇が作られ、その祭壇には一振りの剣が載せられ、全員が見守る中、鞘に収められた、と「ジェントルマンズ・マガジンに掲載された。
19c初頭、カーマーゼンのアイビー・ブッシュ・インで行われた吟唱詩人大会の最後から3日目に、イオロ・モーガヌッグの考案による古代ドルイドを意識したゴーセッズの儀式が公式に取り入れられた.そのときイオロはポケットから小石を取り出し、それでアイビー・ブッシュ・イン(ホテル)の中庭にウェールズ初のゴルセッズ・サークルをを作り、詩の朗読が行われた。
19Cには吟唱詩人大会は深遠な祭儀ではなく、人気のある年間行事となっていた。 カムロドリオンは1820〜37年にかけ積極的にアイステッズボッドを支援した.
1922年、ボーイスカウトやガールズガイドと同じような趣旨でウェールズ青年連盟(イルズ・ゴバイズ・カムリ)が設立され、サマーキャンプやスポーツや吟唱詩人大会を毎年開催した。(しかし、ここではウェールズ語の使用が義務づけられた。)
第1次世界大戦中、ナショナル・アイステッヅヴォッド(全国吟唱詩人大会)は、ウェールズ国民の士気を高める役割を果たした。
第2次大戦後、北ウェールズのランゴレンで国際アイステッヅヴォッドが始まる.
裁きを行う最高位のドルイド
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