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民族衣装?


押しつけられた民族衣装


ウェールズ人女性の民族衣装といえば、まるで「魔女」のような、赤いクロークと黒い山高帽と決まっているが、しかしその衣装とは、19世紀に起きたさまざまの影響を受けて、今日に至ったものである。今日民族衣装とされているものは、19世紀初期のウェールズの片田舎に住む女性によって着られていた服装に端を発している。

主としてそれは縞模様のフランネルのぺチコートと、その上に着るフランネルの前開きベッドガウンで、それにエプロン、ショールをつけ、ネッカチーフか、または帽子をかぶるというものである。帽子は当時の男性がかぶるものと同じであり、今日見るような煙突のように高い帽子は1840年代になって初めて現れた。

この服装は、1620年代のイングランドの農村婦人の衣装であった。当時のイングランドのファッションが、長い時間を経てウェールズに到達し、そこでまた長い間使用され残ったものであった。ウェールズ旅行が盛んになると、イングランドやウェールズからの裕福な旅行者が、人里離れた山間の村を訪れるようになった。かれらは、そのような地に暮らす女性が独得の衣装を着ているのに気づき、それをウェールズの伝統的民族衣装であると誤解したのであった。

民族衣装を着た女子合唱団

 グウェントの製鉄業者の妻であるラノーバー婦人、オーガスタ・ホール( Lady Llanover, Augusta Hall:1821-96)は、ウェールズ的なものに大いに興味をもっていた。彼女は、ウェールズ人の証として、この「民族衣装」を着ることを強く薦めた。彼女はウェールズ語を話し「民族衣装」を着ることこそ、ウェールズ人である証であると思ったからであった。彼女は、そのような衣装を積極的に取り入れ、それをもとにして自ら「民族衣装」をデザインをし、影響力を駆使し、その着用を人々に「強制」した。今日でも、3月1日のセント・ディビッズ・デイには、女子小学生は学校にこのような衣装を着て登校するのが習わしである。

またこの服装をウェールズの民族衣装として広く一般に認識させたのは、観光用に印刷された絵葉書やポスターのたぐいであった。そこに描かれたり、写されたりしたウェールズ婦人の姿は、みな同一のお決まりの姿であった。良くも悪くも、ウェールズの「民族衣装」を有名にしたのは観光旅行であったのかもしれない。

ちなみに、ラノーバー婦人の夫は、英国国会議事堂の大時計、愛称ビッグ・ベンの元となったベンジャミン・ホールである。

カーマーゼンのマーケット


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