〔三河地震〕
昭和20年(1945年)1月13日午前3時38分に、渥美湾を中心に、マグニチュード7.1の直下型地震が起きました。当地でも、深溝断層(ふこうづだんそう)が大きく動いて、西浦・形原あたりを中心に大きな被害をもたらしました。震源に近いところでは多くの死者も出ました。この地震は「三河地震」と命名されました。阪神淡路大震災がマグニチュード7.2だったことから考えて、この地震の大きさがわかると思います。
五井でも、ひどい揺れに襲われたようですが、幸い地盤が硬いので大きな被害を出さずにすみました。
それでも、阪神大震災でいろいろ経験されたように、ピカピカといなずまが見えたり、ドーンと大きな音がしてグラグラ揺れたといわれます。
ところが、五井の人達は地震だと思わずに、てっきり戦争がひどくなったと思い込んでいたそうです。一度も戦闘を経験していない五井では、敵の攻撃と勘違いして「艦砲射撃だ」(かんぽうしゃげき:船から爆弾を打ち込むこと)「艦砲射撃だ」と、戦場に行ったことのある人達が叫び回って、人々もそう信じていたようです。「地震」だと解ったのは後のことだったといいます。
しかし、これほどの大きな地震があったにもかかわらず、一切の報道はされませんでした。それは、報道管制(ほうどうかんせい)といって、政府などの命令で、事実を発表してはいけないと、禁指令が出たからです。
地震の起った昭和20年1月は、あと半年程で日本の敗戦(はいせん:戦争に負けること)が決まる、という時期でした。新聞やラジオでは、「日本は次々勝ち進んでいる」と告げていましたが、本当は敗戦の色がだんだん濃くなってきていたのでした。
だからその時、「地震で大きな被害が出た」と報道することは人々から戦争の意欲を削ぐことになると考え、許されませんでした。
五井における実際の被害は、幸いなことに大きくありませんでした。地震で少し柱が傾いたり、障子がひずんでやぶれたり、唐紙(からかみ:ふすま)が裂けた程度だったということです。家の倒壊、火災、死傷者などはありませんでした。
しかし余震(よしん:大きな地震の前後に起こるそれより規模の小さな地震)の心配もあり、村人は屋外に地震小屋(掘っ建て小屋)を建て、大変寒い中を1週間ほどそこで寝起きしたそうです。
被害としては、これも詳しいことはわかりませんが、昭和19年12月7日に起こった、紀伊半島(きいはんとう)南西沖を震源とする東南海地震の方が大きかったようです。その時は、五井でも墓石の倒壊などの被害がありました。
その頃の記録が、もっとたくさん残っていると、現在の地震対策にとても役立つので、今となってはとても残念です。
資料:死者2306名 負傷者3866名 全半壊した家屋 23776棟
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