マーガレット・ボーフォート
マーガレットは、エドワード3世の第3王子ジョン・オブ・ゴーントの夜叉孫にあたり、ジョン・ボーフォート2世(初代サマセット公爵)の娘であり、女相続人であった。1455年、彼女が12歳のとき、リッチモンド伯エドマンド・テューダーと結婚する。翌年、夫エモマンドは西ウェールズのカーマーゼン城が落城し、捕虜となり、その後死亡する。夫の死後3ヶ月にして、ペンブローク城でヘンリー(後のヘンリー7世)を産む。4年後(1459年)にはヘンリー・スタフォードと再婚するが死別し、ほどなくトマス・スタンリー(後のダービー伯)と3度目の結婚をする。しかしこれらの結婚からは子供はできなかった。彼女にとって、ヘンリーが唯一の息子であった。
彼女は1461年、ヘンリーが4歳のときまで、息子と共に暮らした。その後、1470年に一週間彼と過ごしたことを除けば、彼女はヘンリーが即位するまで、息子ヘンリーに会うことはなかった。ブリタニーに亡命していたヘンリーをイングランドに帰還させるための工作を、彼女は1842年までにほぼ終えていたが、エドワード4世の死とリチャード3世の即位が、その計画を狂わせてしまった。マーガレットはエドワード4世の未亡人と謀り、ヘンリーがヨーク家のエリザベス・オブ・ヨークとの結婚することを条件に、ヘンリーを王位につける運動に乗り出す。そしてこの運動は、ヘンリーがボズワースの戦場でリチャード3世を破ることにより成就する。
ヘンリー7世
その後、王の母として絶大な政治的影響力を行使する。ヘンリー7世の後に、彼の息子であり、彼女の孫であるヘンリー(後のヘンリー8世)を即位させるため、背後から影響力を駆使した。(もともとヘンリー7世の王位継承には、少なからず異論があった。すなわち、血統から言えばヨーク家、女子ならばエドワード4世のエリザベス、男子であればエドワード4世の弟の息子ウォリック伯エドワードに優先権があったからである。)ヘンリー8世即位2週間後に、マーガレット・ボーフォートは死去した。
彼女は、小柄な信仰心厚い女性で、信仰を普及させ、学問の振興につくした。宗教関係の書物の出版に援助の手を差し伸べ、ケンブリッジ大学にはクライスツ・コレッジとセント・ジョンズ・コレッジを寄進した。またオックスフォード大学では最初の神学講座を開設した。また1879年にオックスフォード大学に設立された最初の女子コレッジであるレイディー・マーガレット・ホールは、彼女の名に因んだものである。
セント・ジョンズ・コレッジ(ケンブリッジ大学)