エレナ・バトラーとセアラ・ポンソンビー
ランゴレンのレイディーたち
エレナ・バトラーとセアラ・ポンソンビー
女性同士の駆け落ち?
いわゆるランゴレンのレイディーズといわれている、エレナ・バトラー( Eleanor Butler:1739-1829)とセアラ・ポンソンビー(Sarah Ponsonby:1755-1831)は、ともにアイルランド人であり、エレナ・バトラーは伯爵家に連なる家系であり、セアラ・ポンソンビーは裕福な家庭に育った。2人は女子修道院で出会ったが、教師と生徒という関係に近いものであったといわれる。彼女らの年齢差は16歳であった。アイルランドでは、住居もそんなに遠く離れているというわけではなく、2人の間に交流が続いた。
エレナはいつも、トップハットをかぶり乗馬服を着て乗馬を楽しんだと言われるように、大変男性的な性格をしていたという。母親はエレナに結婚を勧めるが、彼女は聞く耳を持たなかった。エレナが40歳に手が届こうとする年齢に達すると、母親は彼女に女子修道院入りを強く迫るようになった。
一方、セアラは両親を亡くし、裕福な親戚の許で暮らす。ところが、そこの当主サー・ウィリアムは、セアラを後添いにしようと、少々怪しげな目つきで彼女を見るようになる。そこで遂に、エレナとセアラは「駆け落ち」を企てる。
1778年3月30日、最初の逃亡を試みるが、事を知った両家の追っ手に捕まり、それぞれの館に連れ戻される。しかしエレナは再び家を抜け出し、セアラを連れ出すことに成功する。今回は、バトラー家は、娘に愛想をつかしたのか、エレナの連れ戻しを断念し、彼女がアイルランドを離れるのを黙認した。1778年5月9日、彼女ら2人は、召使のメイドを1人連れ、晴れてアイルランドを後にすることができたのであった。
その後約2年間、彼女らはウェールズやイングランド国境付近の町や村に転々としたが、物価の高いロンドンは諦め、1780年の始め、ついにウェールズのランゴレンに腰を落ち着け、居を構え、借家した家をプラース・ネウイズ(Plas Newydd)、すなわち「新しい館」と命名し、ひっそりと暮らし始めた。当時レイディーが体面を保ち生活するには、少なくとも年間400ポンド、いや500ポンドが必要といわれていた。しかし、彼女らは二人で280ポンドの年金しかなかった。彼女らは借りた家を改修し、図書室を作ったり、少々くどい装飾を家に施した。(その家は現在ナショナルトラストの管理下にあり、一般に公開されている。
それから10年が経った1890年の7月24日、 General Evening Postに突然、 "Extraordinary Female Affection"というセンセーショナルな記事が出た。そこには、彼女らの過去と現在が、レズビアンという好奇の視点から暴露されていた。彼女らは当惑しましたが、また有名人にもなってしまった。それからというもの、王侯貴族、政治家、文人といった著名人が彼女らを訪れ始める。彼女らを訪れた著名人の中にはワーズワスもいた。ワーズワスは、最後のウェールズ旅行を1824年にしたおり、ドロシーと共に彼女らを訪ね、ソネットを作っている。
エレナは1829年、90歳でこの世を去った。その2年後セアラは76歳でエレナの許に旅立った。