Yoshiga's Wales & Cardiff Page

CARDIFF BAY


カーディフベイ物語(甦ったドックランド)

議会展示場(旧ピアーヘッドビルディング)


ドックランドはカーディフのウオーターフロントの超1等地として甦った。19世紀に石炭と鉄の積出港として栄え、今日のカーディフの繁栄の礎を築いたドックは、それらの産業が衰退するとともにその役割を失い、歴史のかなたに忘れられていった。繁栄にとり残されたその地域は、犯罪のはびこる危険な場所として、人々の意識の中に暗く陰鬱な陰を落としていた。

このようなドックランドをシドニーのウェーターフロントのような美しい活気に溢れたビジネス、観光、娯楽の中心地にしようとする最初の考えが1960年半ばに打ち出された。その後、このアイディアは80年代前半には具体的な形をとり始めた。その最大の特徴は、カーディフ湾を堰でせき止め、干満の差が8m近くもあるカーディフ湾の水位を常に一定に保ち、魅力的なウェーターフロントを形成することであった。

カーディフ湾から堰を通り、ブリストル海へ出ていくヨット

しかし、この計画が発表されると、市民の間から反対運動が起きた。推進側は堰の建設によりカーディフ湾に流れ込む2つの川の氾濫を防ぐことができるとしたものの、反対側はその建設により、地下水が影響を受け、逆に川の氾濫を引き起こす、というものであった。しかし、もっとも核心をついた議論は、カーディフ湾内の潮が引いたときに現れる干潟が、堰の建設により失われ、その結果、野生生物、特に水鳥や渡り鳥の生息地が奪われるという問題であった。この問題は決着がつかず、ECの決定に委ねることとなった。ECは堰の建設を特例として認めることとし、野生生物のための代替え地を確保することとなった。その代替え地は、ニューポートの近くのグウェント・レベルにある1000エーカーの農場地があてられ、そこを下水の水を使い、湿地にすることとなった。しかしこれは代替え地の周辺の農場主から汚染の恐れがあるとの強硬な反対がでた。10年間の紆余曲折の末、ついに再開発がスタートした。

ウオーターフロント

ヨーロッパ最大の堰が完成し、カーディフ湾は常に一定の水位を保った人工湖となった。カーディフ湾に流れ込む2つの川の水は、近い将来、カーディフ湾を淡水湖とするであろう。常に水をたたえた海岸にはヨットハーバーが作られ、数多くのヨットが停泊している。また海岸には立派なフラットや5つ星のホテルが建ち、水面にその姿を映している。そこにはまたレストランや映画館が立ち並び、重要な企業のビルやメディア関係の建物がある。また1999年に発足したウェールズ議会は、諸機関をカーディフベイに置いた。そして今ここに、新しいウェールズ議会議事堂の建設が始まろうとしている。また多目的ホールとして、巨大なミレニアムセンターの建設も計画されている。今後、ますますこの地域は、政治、経済、観光、娯楽といったあらゆる面で重要になるであろう。

セント・デイビッズホテル(正面)


ドックとは。

ウェールズの海岸の潮位の差は大変大きく、7m〜8mもある。そのため、常に一定水位を保つドックという設備が必要であった。これがウェットドックと呼ばれる巨大な閘門付きの港湾施設であった。このドックにより、潮の満ち引きに影響を受けず、船舶は荷役作業が可能となった。ドック内の水位と湾内の水位が同じになったとき、閘門が開かれ船が出入りできたのである。カーディフドックは19世紀および20世紀初頭には非常に重要な港であり、1910年、スコット大尉率いる悲劇の南極探検隊の母港ともなった。