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WELSHNESS


エリザベス・デイヴィス:ナイティンゲールの仇役?


エリザベス・(カドワラデル)デイヴィス (Elizabeth Davis(or Cadwaladr:1789-1860)は中部ウェールズのバラに生まれた。彼女はF・ナイチンゲールの仇役としてF・ナイチンゲール伝に登場する。しかし、残念ながら、そこでは一方的に非難されているが、その弁護とはいかないまでも、どのような人生を辿った女性であったかを述べてみたい。

「ウェールズ人女性エリザベス・デイヴィスに率いられたメアリー・スタンリー一派のある看護婦たちは、ナイチンゲール女史の規律から逃れる決意をした。」

「デイヴィス夫人はナイチンゲールを見る前から、ナイチンゲールを毛嫌いし始めていた。『ナイチンゲールという名前からして嫌いだった。名前を聞いただけで、その人が好きになれるかどうか、わたしには感覚で分かるのよ』とデイビス夫人は書いている。」

「彼女(デイヴィス夫人)は、たちまち台風の眼となった。ことごとに命令に叛き、また「慰問品の分配規則をまもらなかった。彼女は、助詞が慰問品を自分で教授仕手いると言い立てて非難し…….」

セシル・ウーダム=スミス著、武山満智子・小南吉彦訳『ナイチンゲール伝』(現代社)


これらはセシル・ウーダム=スミスの『ナイチンゲール伝』におけるウェールズ人女性エリザベス・デイヴィス像である。デイヴィス夫人は「クリミアの天使」と呼ばれたフロレンス・ナイチンゲールに楯突き、歴史に「汚名」を残すこととなってしまったが、『ナイチンゲール伝』を除けば、その他の資料としては、1857年に『ウェールズ史』の著者アスガヴェルのジェーン・ウィリアムズ(1806-85)が、エリザベスとのインタビューから編集した『エリザベス・デイヴィス自叙伝・バラクラヴァの看護婦、ダヴィッズ・カドワラドルの娘』しかない。それを元にした彼女の略歴が『ウェールズ伝記辞典』に載っている。以下はそれに基づいた知られざるエリザベス・デイヴィスの生涯の概略である。

エリザベス・デイヴィスはダヴィッド・カドワラドル(1752-1834)の娘として1789年5月24日に北ウェールズはバラに生まれている。父親ダヴィッドはカルヴァン主義メドジスト教会の説教師であり、同じくカルヴァン主義メドジスト教会の中心的人物であったトマス・チャールズの大の親友であった。エリザベスは子供の頃、チャールズ・トマスから小型の聖書を貰い、生涯それを大切に使ったという。バラの主要産業はウールの手編み製品であり、リューマチを患ったジョージ3世はバラで製造された靴下を穿いていたというが、かれは大変な速さで編み物をしながら説教を考えたと娘は語っている。かれはウェールズに名の知られた大変有名な説教師となったという。

1795年に母親が死ぬと、エリザベスは大嫌いであった長女の世話を受けることになったが、すぐに姉に対し反抗的になっていった。すでにこの時期に彼女の反抗的性格の一部は形成されつつあったといえる。その後、地主のサイモン・ロイドの家に引き取られ、そこで暖かく育てられ、ダンスやパープ演奏を習うが、14歳のとき、突然家出し、リバプールへ行く。そこでメイドとして働きながらも、ウェールズ・カルヴァン主義メソジスト教会と密接な関係を保つ。雇い主が旅行するたびにエリザベスは同行し、エディンバラではシドンズ夫人の演ずる劇を見ることができた。また1815年から16年にかけてヨーロッパ大陸の国々を訪れた。

その後バラに戻るも、見合い結婚をさせられそうになり、再びチェスターに「逃亡」し、そこからロンドンへ行く。ロンドンでは、彼女が遠縁に当たるというグラナゴルスのジョン・ジョーンズの許に滞在する。上流社会風の華やかな仕立屋のメイドとなったエリザベスは、強い宗教心をもって教会に通う一方で、また逸る心で劇場にも通ったのである。実は、この彼女の行動と心の中に、新旧のウェールズの姿が凝縮されているのである。カルヴァン主義メソジスト教会がウェールズ人の心から楽天的で陽気な気質を払拭してしまったと言われるが、エリザベスの心の中にはメソジストの文化がウェールズを席巻する以前の、楽しく快活で寛容な精神がかの女の演劇への強い関心として残っており、また一方で、肌身離さず持ち続けた聖書と教会への出席に表れている親譲りの信仰心は、新しいウェールズの文化風土を象徴しているのである。

1820年、再びバラに戻ったあと、今度は船長の家族のメイドとなり、その家族に従い世界を巡る。いろいろな有名人とも会い、多くの結婚申し込みがあったが、彼女はそれらを断ったと言っているが、たぶんに見栄で言っているものと思われる。事実、彼女は男性的性格が強かったとの一般的な見方があるほどである。1844−5年、北ウェールズに、1849年には南ウェールズに滞在した。それからロンドンのガイズ・ホスピタルで、看護婦の訓練を受ける。それが、クリミアへの第2次看護婦派遣団の一員としてのトルコ行きに繋がる。その後の彼女の行動は、フローレンス・ナイティンゲール伝にある。1860年7月17日にロンドンの妹ブリジッドの家で死亡する。

近年、特にこの数年、ナイティンゲールの評価にはちょっとした変化が見られる。旧来の栄光に輝いたナイティンゲールではなく、もっと厳しい批評も出るようになった。さて、今後のエリザベス・デイヴィスの評価はどうなるのであろうか?