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ゲレルトの墓


ベズゲレルトと忠犬ゲレルトの墓

1820年代にはウェールズは産業革命の最前線にあり、石炭と製鉄業が繁栄の道を歩んでいた。荒れ地に突然最新式の製鉄所や、炭坑労働者の住宅が出現した。道路も次第に改善され、より多くの人々がウェールズを訪れるようになるとともに、ウェールズの古い村の美しさも姿を消していった。1816年出版の『カンブリア素描・北ウェールズ旅行記』でエドワード・ピューは、ワーズワスがスノードン山登頂の際に立ち寄ったベーズゲレルトの小村を次の様に記している。

「高い山と、ごつごつとした岩の断崖に囲まれたベズゲレルトはそのロマンティックな立地条件と、スノードンに近いということで旅行者にもうすでに大変よく知られていた。」

ピューが言うように、1816年頃にはベーズゲレルトの村は旅行者の間ではかなり有名になっていた。そうであれば、1824年にワーズワスが「ほぼ30年前、スノードン山頂に深夜登るに際し、私が軽食を取ったみすぼらしいパブは、瀟洒なホテルになっていた」と驚きをもって記しているのも、決して驚くほどのことではないのかもしれない。しかしこのような片田舎を俗化させ、みすぼらしいパブを小綺麗なホテルに変えたのは、単にベズゲレルトがロマンティックな風景のなかにあり、スノードン山に近いという地理的条件だけではなかった。ベズゲレルトを有名にしたものが、実はもうひとつあったのである。 ベズゲレルトという地名に注目してみよう。ベズ(bedd)とはウェールズ語で「墓」を意味する。したがって、ベズゲレルト(Beddgelert)は「ゲレルトの墓」という意味になる。ではゲレルト(gelert)とは何か。それに関して、次のような伝説がある。

ベズゲレルトの忠犬

有名なウェールズ王は数多くいるが、ルーウェリン大王(Llywelyn ap Iorwerth, ウェールズ語ではスィウェリン大王: ?-1240)は特に有名であった。そのルーウェリンがまだ若いころ、幼い息子を連れ、この地に狩りにやって来た。いつもその子の子守をする召使いの若い娘は、狩りが始まるというのに、人目を盗み、恋人と会うために出かけてしまった。そのようなわけで、彼が狩りをしている間、その幼子の子守りは、ルーウェリンの愛犬ゲレルトに託された。ゲレルトはたいへん大きなアイリッシュ・ウルフ・ハウンドであったという。

ルーウェリンは小屋にその子を残し、狩りに行ったが、狩りを終えて戻って来た彼が見たのは、口と前足を血に染めた愛犬ゲレルトであった。ルーウェリンは驚き、小屋のなかの我が子を探すが、子供の姿は見あたらない。彼は愛犬ゲレルトが息子を食い殺したと思い、怒りのあまり、ゲレルトを殺す。ところが、息絶え絶えのゲレルトの悲しい鳴き声に交じり、小屋の暗闇のなかでかすかな声がする。彼はそこに無事な我が子の姿を発見した。しかも、その子の傍らには、大きなオオカミの死体が横たわっていた。ルーウェリンはすぐに、真実を悟り、息子の命の恩人である愛犬ゲレルトを殺したことを悔やんだ。彼はゲレルトのために立派な墓を作り、そこに愛犬を埋葬した。それ故に、この地をゲレルトの墓、すなわち、ベズゲレルトというようになったという。

この伝説は、ペット好きのイギリス人を大いに感動させた。特に、ベズゲレルトを1800年に訪れたW・R・スペンサー師(William Robert Spencer, 1769-1834)はこの話に心を動かされ『ゲレルト、ルーウェリンの犬』("Gelert Llywelyn's Dog")という詩を作った。

ああ、ルーウェリンの心の痛みはいかほどであったか
なぜなら、今や真実は明らかになったから
この勇敢な犬があの狼を殺したのだ
ルーウェリンの世継ぎを救うために。

むなしい、むなしい、今となってはルーウェリンの悲嘆も
「さらば、汝、最良の忠犬よ、
汝を殺した逆上の行為
この心、永久に悔いん」

そして今、贅を尽くした彫像で飾られた
豪奢な墓が造られた。
犬を称え、物語る大理石の彫像は
哀れなゲレルトの骨を守る。

槍兵も、また森の住民も、誰一人として感動せず
その墓前を通り過ぎることはできなかった
あまたの涙に濡れた墓前の芝土は
ルーウェリンの悲哀の証しであった。

彼はここに角笛と槍を掛けた。
そしてしばしば夕闇の迫るとき、
哀れなゲレルトのいまわの声が
心の耳に甦った。

(『ゲレルト、ルーウェリンの犬』73〜92行)

しかし、実はこの伝説は、商売の才能に長けた南ウェールズ出身の男によって、1784年から1794年頃に創作された金儲けのための「作り話」であったという。その男とは、ベズゲレルトのロイヤル・ゴート・ホテル初代所有者デイビッド・プリチャード氏であった。

現在のロイヤル・ゴート・ホテル

また彼はご丁寧にも、その犬の墓まで作った。 その墓は、大きなしだれ柳の下に、今も柵に囲まれてある。 小説家であり、旅行家のジョージ・ボロー(George Borrow"1803-81)は1854年、この墓を訪れている。1862年に出版された彼の著書『ワイルド・ウェールズ』において、彼はその伝説を語ったあと、次のように続けている。

彼(ルーウェリン)の心は今や我が子が無事であったことへの喜びと、犬を殺してしまった悔恨の情に引き裂かれた。彼は犬のもとに駆け寄った。その哀れな犬はまだ死んではいなかったが、主人の手を舐めながら、それからすぐに息を引き取った。ルーウェリンはまるで兄弟の死を悼むかのように、ゲレルトの死を嘆いた。そしてその谷で立派な葬儀を行い、彼を埋葬し、英雄として墓を建てた。このときより、その谷はベズゲレルトと呼ばれた。 これがその伝説である。それは真実であれ、虚構であれ、大変美しい話であり、感動的である。 ゲレルトの墓であるといわれているその墓は、ケリッグ・スランの断崖の下にある美しい牧場にある。その墓は、ふたつの直立した石とその横にある石版からできている。その墓はしだれ柳の下にあり、六角形の柵で囲まれている。それらの石の下にその犬が眠っていると信じようと信じまいと、その伝説を知っている人なら、「かわいそうなゲレルト!」と声を発しないでこの墓に詣でることはできないであろう。

ベズゲルの墓

ワーズワスが驚きを禁じえなかったこのベズゲレルトの変化の背景には、この新しい「伝説」も陰で一役かっていた。この新たに創られた伝説が、より多くの旅行者を引きつけ、またパブがホテルになるほど、商売は大繁盛したというわけである。奇しくも、ワーズワスはこの伝説が誕生する直前のベズゲレルトと、誕生後のベズゲレルトの両方を訪れたことになる。彼は身を持ってこの創られた伝説の効力を体験したことになる。彼の驚きも肯けるわけである。

以上、吉賀憲夫『旅人のウェールズ 旅行記でたどる歴史と文化と人』(晃学出版、2004年)p. 341-347より。

なお、この伝説の「創作」に関しては、

Prys Morgan, "The Hunt for the Welsh Past in the Romantic Period", The Invention of Tradition ed. Eric Hobsbawn and Terence Ranger (Cambridge U. P.,1983) p.87.

に出ている。なお、この翻訳が紀伊国屋書店より『伝統の創造』として出版されている。